智囊 / 通簡・呂公孺
呂公孺知永興軍,徙河陽。洛口兵千人,以久役思歸,奮斧鍤排關。不得入,西走河橋,觀聽洶洶。諸將請出兵掩擊,公孺曰:「此皆亡命,急之變且生。」即乘馬東去,遣牙兵數人迎諭之,曰:「汝輩誠勞苦,然豈得擅還之?渡橋,則罪不赦矣。太守在此,願自首者止道左。」皆佇立以俟,公孺索倡首者,黥一人,餘復送役所,語其校曰:「若復偃蹇者,斬而後報。」眾貼息。
新字:呂公孺知永興軍,徙河陽。洛口兵千人,以久役思帰,奮斧鍤排関。不得入,西走河橋,観聴洶洶。諸将請出兵掩撃,公孺曰:「此皆亡命,急之変且生。」即乗馬東去,遣牙兵数人迎諭之,曰:「汝輩誠労苦,然豈得擅還之?渡橋,則罪不赦矣。太守在此,願自首者止道左。」皆佇立以俟,公孺索倡首者,黥一人,余復送役所,語其校曰:「若復偃蹇者,斬而後報。」衆貼息。
書き下し
呂公孺は永興軍に知たり、河陽に徙る。洛口の兵千人、久役を以て帰らんと思い、奮いて斧鍤もて関を排す。入るを得ず、西のかた河橋に走り、観聴洶洶たり。諸将は兵を出して掩撃せんことを請う。公孺曰く、「此れ皆な亡命なり、之を急にすれば変は且に生ぜんとす」と。即ち馬に乗りて東に去り、牙兵数人を遣わして迎え諭さしめ、曰く、「汝輩は誠に労苦す、然れども豈に擅に還るを得んや。橋を渡らば、則ち罪は赦されず。太守は此に在り。自首せんと願う者は道左に止まれ」と。皆な佇立して以て俟つ。公孺は倡首の者を索め、一人を黥し、余は復た役所に送り、其の校に語りて曰く、「若し復た偃蹇する者あらば、斬りて而る後に報ぜよ」と。衆は貼息す。
現代語訳
呂公孺は永興軍の知事から河陽に転任した。洛口の兵千人が、長い労役のため帰りたいと思い、奮い立って斧やスコップで関所の扉を押し破ろうとした。入ることができず、西のかた河橋に走り、見聞きする人々は騒然となった。諸将は兵を出して不意打ちすることを願い出た。公孺は言った。「これらはみな脱走兵だ。急に迫れば、変事が起こるだろう」。そして馬に乗って東へ行き、牙兵数人を遣わして迎えて諭させた。「お前たちは本当に苦労している。だが勝手に帰ってよいわけではない。橋を渡れば、罪は赦されない。太守はここにいる。自首したい者は道の左に止まれ」。みな立ち止まって待った。公孺は首謀者を探し出し、一人に入れ墨の刑を科し、残りは再び労役の場所に送り、その校尉に言った。「もしまた怠ける者がいたら、斬ってから報告せよ」。大勢は静かになった。
解説
この章句が説くこと
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「仁賢を信ぜざれば、則ち國空虚なり。禮義無ければ、則ち上下亂る。政事無ければ、則ち財用足らず。」 <解説> 国の大事として、仁賢・禮義・政事の三者を挙げているが、尹氏云う、「三者、仁賢を以て本と為す、仁賢無ければ、則ち禮義・政事、之に處りて皆其の道を以てせず。」と。乃ち三者の中でも仁賢が最も根本であり、仁者・賢者がおればこそ、国の禮義や政治政策は善く行われるということである。
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『春秋左氏伝』襄公十八年 太子、剣を抜きて鞅を断つ十二月戊戌、秦周に及びて雍門の萩を伐つ。范鞅雍門に門す。其の御追喜、戈を以って犬を門中に殺す。孟莊子其の橁を斬りて、以って公の琴と為す。己亥、雍門及び西郭・南郭を焚く。劉難・士弱、諸侯の師を率ゐて、申池の竹木を焚く。壬寅、東郭・北郭を焚く。范鞅揚門に門す。州綽東閭に門す。左驂迫りて、東門の中に還り、枚を以って闔を數ふ。齊侯駕して、將に郵棠に走らんとす。大子と郭榮と馬を扣へて曰く、「師速やかにして疾し、略するなり。將に退かんとす。君何ぞ懼れん。且つ社稷の主は、以って輕んずべからず。輕んずれば則ち眾を失ふ。君必ず之を待て」と。將に之を犯さんとす。大子劍を抽きて鞅を斷つ。乃ち止む。甲辰、東のかた侵して濰に及び、南のかた沂に及ぶ。
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『春秋左氏伝』襄公九年 宋の大火と天道九年春、宋災あり。樂喜、司城と為り、以て政を為す。伯氏をして里を司らしむ。火の未だ至らざる所は、小屋を徹し、大屋を塗り、畚挶(ほんきょく)を陳ね、綆缶(かうふ)を具へ、水器を備へ、輕重を量り、水潦を蓄へ、土塗を積み、丈城を巡り、守備を繕ひ、火道を表す。華臣をして正徒を具へしめ、隧正に令して郊保を納れ、火所に奔らしむ。華閱をして右官を討めしめ、官ごとに其の司を庀(をさ)めしむ。向戌をして左を討めしむること、亦た之の如し。樂遄をして刑器を庀めしむること、亦た之の如し。皇鄖をして校正に命じて馬を出さしめ、工正に車を出さしめ、甲兵を備へ、武守を庀めしむ。西鉏吾をして府守を庀めしめ、司宮・巷伯に令して宮を儆めしむ。二師、四鄉の正に令して敬んで享せしむ。祝宗、馬を四墉に用ゐ、盤庚を西門の外に祀る。晉侯、士弱に問ひて曰く、「吾之を聞く、宋災あり、是に於てか天道有るを知ると。何の故ぞ」と。對へて曰く、「古の火正は、或いは心に食し、或いは咮(ちう)に食し、以て火を出內す。是の故に咮を鶉火と為し、心を大火と為す。陶唐氏の火正閼伯(あつはく)、商丘に居りて大火を祀り、而して火もて時を紀す。相土之に因る。故に商は大火を主とす。商人、其の禍敗の釁(きざし)を閱するに、必ず火に始まる。是を以て日に其の天道有るを知るなり」と。公曰く、「必すべきか」と。對へて曰く、「道に在り。國亂れて象無ければ、知るべからざるなり」と。
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