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史記 / 項羽本紀

今入關,財物無所取,婦女無所幸,此其志不在小。吾令人望其氣,皆為龍虎,成五采,此天子氣也。急擊勿失。」楚左尹項伯者,項羽季父也,素善留侯張良。張良是時從沛公,項伯乃夜馳之沛公軍,私見張良,具告以事,欲呼張良與俱去。曰:「毋從俱死也。」張良曰:「臣為韓王送沛公,沛公今事有急,亡去不義,不可不語。」良乃入,具告沛公。沛公大驚,曰:「為之柰何?」張良曰:「誰為大王為此計者?」曰:「鯫生說我曰『距關,毋內諸侯,秦地可盡王也』。故聽之。」良曰:「料大王士卒足以當項王乎?」沛公默然,曰:「固不如也,且為之柰何?」張良曰:「請往謂項伯,言沛公不敢背項王也。」沛公曰:「君安與項伯有故?」張良曰:「秦時與臣游,項伯殺人,臣活之。今事有急,故幸來告良。」沛公曰「孰與君少長?」良曰:「長於臣。」沛公曰「君為我呼入,吾得兄事之。」張良出,要項伯。項伯即入見沛公。沛公奉巵酒為壽,約為婚姻,曰:「吾入關,秋豪不敢有所近,籍吏民,封府庫,而待將軍。所以遣將守關者,備他盜之出入與非常也。日夜望將軍至,豈敢反乎!願伯具言臣之不敢倍德也。」項伯許諾。謂沛公曰:「旦日不可不蚤自來謝項王。」沛公曰:「諾。」於是項伯復夜去,至軍中,具以沛公言報項王。

新字:今入関,財物無所取,婦女無所幸,此其志不在小。吾令人望其気,皆為竜虎,成五采,此天子気也。急撃勿失。」楚左尹項伯者,項羽季父也,素善留侯張良。張良是時従沛公,項伯乃夜馳之沛公軍,私見張良,具告以事,欲呼張良与倶去。曰:「毋従倶死也。」張良曰:「臣為韓王送沛公,沛公今事有急,亡去不義,不可不語。」良乃入,具告沛公。沛公大驚,曰:「為之柰何?」張良曰:「誰為大王為此計者?」曰:「鯫生説我曰『距関,毋内諸侯,秦地可尽王也』。故聴之。」良曰:「料大王士卒足以当項王乎?」沛公黙然,曰:「固不如也,且為之柰何?」張良曰:「請往謂項伯,言沛公不敢背項王也。」沛公曰:「君安与項伯有故?」張良曰:「秦時与臣游,項伯殺人,臣活之。今事有急,故幸来告良。」沛公曰「孰与君少長?」良曰:「長於臣。」沛公曰「君為我呼入,吾得兄事之。」張良出,要項伯。項伯即入見沛公。沛公奉巵酒為寿,約為婚姻,曰:「吾入関,秋豪不敢有所近,籍吏民,封府庫,而待将軍。所以遣将守関者,備他盗之出入与非常也。日夜望将軍至,豈敢反乎!願伯具言臣之不敢倍徳也。」項伯許諾。謂沛公曰:「旦日不可不蚤自来謝項王。」沛公曰:「諾。」於是項伯復夜去,至軍中,具以沛公言報項王。

書き下し

今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。

現代語訳

(范増は続けて言った。)「ところが関中に入ってからは、財物を何一つ取らず、女性を誰一人近づけていません。これはその志が小さなところにないということだ。私が人に命じてその雲気を望ませたところ、皆、龍や虎の形をなし、五色の彩りを帯びていました。これは天子の気だ。急いで撃ち、機を逃してはなりません」。楚の左尹(副宰相)の項伯は項羽の叔父で、以前から留侯張良と親しかった。張良はこのとき沛公に従っていた。項伯はそこで夜に馬を走らせて沛公の軍に行き、ひそかに張良に会って、事の次第を詳しく告げ、張良を呼び出して一緒に立ち去ろうとした。「一緒に死ぬことはない」と言った。張良は言った。「私は韓王のために沛公を送ってきたのだ。沛公はいま急な事態にある。逃げ去るのは不義だ。告げないわけにはいきません」。張良はそこで中に入り、詳しく沛公に告げた。沛公は大いに驚き、「どうしたらよいのだ」と言った。張良は言った。「誰が大王のためにこの計略を立てたのですか」。沛公は言った。「小物の男が私に『函谷関を閉ざして諸侯を入れなければ、秦の地をすべて治める王になれます』と説いたのだ。だからそれに従った」。張良は言った。「大王の兵力を見積もって、項王に対抗するのに足りるとお考えですか」。沛公は黙り込み、やがて言った。「もとより及ばない。いったいどうしたらよいのだ」。張良は言った。「どうか私が項伯のところへ行き、沛公は決して項王に背くつもりはないと伝えさせてください」。沛公は言った。「君はどうして項伯と付き合いがあるのか」。張良は言った。「秦の時代に私と交遊がありました。項伯が人を殺したとき、私が彼を助けたのだ。いま急な事態になったので、ありがたくも私に知らせに来てくれたのです」。沛公は言った。「君と彼とではどちらが年上か」。張良は「私より年上です」と答えた。沛公は言った。「君、私のために彼を呼び入れてくれ。私は兄として彼に仕えよう」。張良は外に出て、項伯を招き入れた。項伯はすぐに入って沛公に会った。沛公は大杯の酒を捧げて長寿を祝い、子ども同士を結婚させる約束をして言った。「私は関中に入ってから、秋に抜け替わる獣の細い毛ほどのものにも手を触れず、役人と民を戸籍に登録し、倉庫を封印して将軍(項羽)を待っていたのだ。将を派遣して関を守らせたのは、他の盗賊の出入りと不測の事態に備えたためだ。日夜将軍のお越しを待ち望んでいたのに、どうして背いたりしましょうか。どうか項伯殿、私が決してご恩に背かないことを詳しくお伝えください」。項伯は承諾した。そして沛公に言った。「明朝早く、ご自身で来て項王に謝罪しなければなりません」。沛公は「承知した」と言った。こうして項伯は再び夜のうちに去り、軍中に戻って、沛公の言葉を詳しく項王に報告した。

解説

鴻門の会の前夜の段です。范増は、財宝にも女性にも手を出さない劉邦の変化こそ大志の証だと見抜き、即座の攻撃を勧めました。ところが項羽の叔父項伯が、旧友張良を救おうと夜中に劉邦の陣へ駆けつけます。張良は一人で逃げるのを不義として断り、劉邦にすべてを告げました。ここで劉邦は、自軍が項羽に及ばないことを素直に認め、項伯を兄として遇し、姻戚の約束まで結んで弁明を託します。危機に際して見栄を捨て、使える縁を即座に活かす劉邦の柔軟さがよく表れています。一方の項羽陣営は、叔父が敵に情報を漏らすという結束の弱さを抱えていました。自分の力を正直に見積もること、恩義で結ばれた人の縁が決定的な局面で命を救うことを、この段は鮮やかに示しています。

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