智囊 / 通簡・廉希憲
廉希憲為京兆。四川宣撫使渾都海反,西川將紐鄰奧、魯官將舉兵應之。蒙古八春獲之,係其黨五十餘人於乾州獄,送二人至京兆,請並殺之。希憲謂僚佐曰:「渾都海不能乘勢東來,保無他慮。今眾志未一,猶懷反側;彼若見其將校執囚,或別生心,為害不細。可因其懼死,並皆寬釋,就發此軍餘丁往隸八春,上策也。」初八春既執諸校,其軍疑懼,駭亂四出;及知諸校獲全,紐鄰奧、魯官得釋,大喜過望,人人感悅。八春果得精騎數千,將與俱西。〔馮述評〕所以隸八春者,逆知八春力能制之,非漫然縱虎遺患也。八春能死之,希憲能生之,畏感交集,不患不為我用矣。
新字:廉希憲為京兆。四川宣撫使渾都海反,西川将紐鄰奥、魯官将舉兵応之。蒙古八春獲之,係其党五十余人於乾州獄,送二人至京兆,請並殺之。希憲謂僚佐曰:「渾都海不能乗勢東来,保無他慮。今衆志未一,猶懐反側;彼若見其将校執囚,或別生心,為害不細。可因其懼死,並皆寛釈,就発此軍余丁往隸八春,上策也。」初八春既執諸校,其軍疑懼,駭乱四出;及知諸校獲全,紐鄰奥、魯官得釈,大喜過望,人人感悦。八春果得精騎数千,将与倶西。〔馮述評〕所以隸八春者,逆知八春力能制之,非漫然縦虎遺患也。八春能死之,希憲能生之,畏感交集,不患不為我用矣。
書き下し
廉希憲は京兆たり。四川宣撫使渾都海反し、西川の将紐鄰奧、魯官は兵を挙げて之に応ぜんとす。蒙古八春は之を獲、其の党五十余人を乾州の獄に係ぎ、二人を京兆に送り、並びに殺さんことを請う。希憲は僚佐に謂いて曰く、「渾都海は勢に乗じて東に来る能わず、他の慮い無きを保す。今、衆志は未だ一ならず、猶お反側を懐く。彼若し其の将校の執囚せらるるを見ば、或いは別に心を生じ、害を為すこと細からず。其の死を懼るるに因りて、並びに皆な寛釈すべし。就ち此の軍の餘丁を発して八春に隸せしむるは、上策なり」と。初め八春は既に諸校を執らえしかば、其の軍は疑懼し、駭乱して四出す。諸校の全きを獲たるを知るに及び、紐鄰奧、魯官は釈さるるを得て、大いに喜びて望みに過ぎ、人人感悦す。八春は果たして精騎数千を得て、将に与に俱に西せんとす。〔馮述評〕八春に隷せしむる所以は、逆め八春の力能く之を制するを知ればなり。漫然として虎を縦ちて患を遺すに非ず。八春は能く之を死にせしめ、希憲は能く之を生かし、畏と感と交々集まり、我が用を為さざるを患えず。
現代語訳
廉希憲は京兆の長官であった。四川宣撫使の渾都海が反乱し、西川の将の紐鄰奧と魯官が兵を挙げてこれに応じようとした。モンゴルの八春は彼らを捕らえ、その一味五十人余りを乾州の獄につなぎ、二人を京兆に送り、ともに殺すよう願い出た。希憲は部下に言った。「渾都海は勢いに乗じて東に来ることはできまい。他に心配はないと請け合える。いま、人々の意志はまだ一つになっておらず、迷いを抱いている。彼らがもしその将校たちが捕らえられたのを見れば、ほかの心を起こすかもしれず、害は小さくない。彼らが死を恐れている今こそ、みな寛大に釈放すべきだ。そのうえで、この軍の余剰の兵を派遣して八春に従わせるのが上策だ」。当初、八春が将校たちを捕らえたため、その軍は疑い恐れ、驚き乱れて四方へ逃げ散った。将校たちが無事だったと知ると、紐鄰奧と魯官は釈放されたことに大いに喜び、望外のことと人々は感激した。八春は思いがけず精鋭の騎兵数千を得て、ともに西へ向かおうとした。〔馮夢龍の評〕八春に従わせたのは、八春の力がこれを制することができるとあらかじめ知っていたからである。いい加減に虎を放って禍根を残すわけではない。八春は彼らを死なせることができ、希憲は彼らを生かせる。畏れと感謝がともに集まれば、我が用となることを心配しなくてよい。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』序・智囊自敘或ひと又た曰く、舜・孔の事は則ち誠に然り。然れども『智囊』なる者は、固より大夫錯の膏もて漢市に焚かれし所以なり。子は何を取らんや。馮子曰く、不、不。錯は智に死せず、愚に死せり。其の坐して兵を談ずるに方たりては、人主色を動かせしも、七国の事起こるに迨びて、乃ち天子をして将たらしめ、己は居守せんと欲す。一たび不智を為せば、讒興りて身滅ぶ。然りと雖も、錯は身を衛るに愚にして、国を籌るに智なり。故に身死して数千年、人猶お之を痛み、名臣に列す。輓鬥宵の流は、身を衛るに偏えに智にして、国を籌るに偏えに愚なり。此を以て彼に較ぶれば、誰か妍にして誰か媸なるか。且つ『智囊』の名、子は其の一を知りて、二を未だ知らざるなり。錯に前んずる者に樗里子有り。錯に後るる者に魯匡・支謙・杜預・桓範・王倹有り。其の皇明に在りては、楊文襄公並びに此の号を擅にす。数君子は、跡は一軌ならざれども、亦た多く功を成し勲を豎て、身は栄え道は泰かなる者有り。子は其の利を捨てて其の害を懲らす。是れ猶お一人の溺るるを睹て、舟楫の用を廃するがごとし。夫れ亦た愈いよ不智なり。或ひと又た曰く、子の『智囊』を述ぶるは、人をして智を学ばしめんとするなり。智は性より生ずるか、紙上に由るか。馮子曰く、吾れ向に固より之を言えり。智は猶お水のごとし。然して地中に蔵するは性なり。鑿ちて之を出だすは学なり。井澗の用は、江河と参す。吾れは夫の人性の土石に錮せらるるを憂え、紙上の言を以て之が畚鍤と為す。応世に廖ゆること有るに庶からんのみ。
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『智囊』集哲・李文姬李固がすでに策免されると、禍を免れぬことを知り、二子を郷里に帰らせた。時に燮は十三歳、姉の文姫は同郡の趙伯英の妻で、賢くて智があった。二兄の帰るのを見て、ことの本末を知り、黙然として独り悲しみ、言った、「李氏は滅びる。太公以来、徳を積み仁を累ねてきたのに、どうしてこのようなことに遭うのか。」密かに二兄と謀り、あらかじめ燮を隠し、京師に還ると托言したので、人は皆これを信じた。ほどなく難が起こり、郡に下って固の三子を捕らえ、二兄は害を受けた。文姫は父の門生王成に告げた、「君は義を執って先公に仕え、古人の節がある。いま六尺の孤を君に託します。李氏の存滅は君にかかっています。」成はその義に感じ、燮を連れて江を下り、徐州の界内に入り、姓名を変えて酒屋の雇人とさせ、自分は市で卜を売った。名は異居としながら、陰で往来し、燮は学を受けた。酒屋の主はこれを怪しみ、尋常の人ではないと思い、娘を燮に妻わせた。燮は経学に専心した。十余年のあいだに梁冀が誅され、災異がしばしば現れ、翌年、史官が上言した、「赦令を出すべきで、また冤死した大臣の子孫を存録すべきです。」ここに天下に大赦し、あわせて固の後嗣を求めた。燮は本末を酒屋の主に告げ、主は車を整えて厚く贈ったが、皆受けなかった。郷里に還り、姉弟は相見えて、悲しみは傍らの人を感動させた。やがて燮を戒めて言った、「先公は正直で、漢の忠臣であったのに、朝廷の傾乱に遭い、梁冀が虐を恣にして、我が宗祀の血食を絶やそうとした。いま弟が幸いに生き延びたのは、天ではないか。衆人との交わりを絶ち、みだりに往来してはならない。慎んで梁氏に一言も加えてはならない。梁氏に加えれば主上に連なり、禍が重ねて至る。ただ咎を引き受けるのみである。」
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『智囊』靈變・吳郡卒蘇峻の乱に、諸庾は逃げ散る。庾冰は時に呉郡たり、単身にして奔り亡る。吏民は皆去り、ただ郡卒のみ独り小船を以て冰を載せて銭塘の口を出で、蘧蒢を以てこれを覆う。時に峻は賞募して冰の属を覓め、所在の搜括は甚だ急なり。卒は船を市の渚に泊め、酒を飲み酔いて還り、棹を舞わして船に向かいて曰く、「何れの処にか呉郡を覓むる。この中に便ち是れなり」と。冰は大いに驚き怖るるも、敢えて動かず。監司は船小さく装い狭きを見て、卒の狂酔と謂い、都べて復た疑わず。自ら送りて浙江を過ぎ、山陰の魏家に寄せ、免るるを得たり。後に事平らぐや、冰は卒に報いんと欲し、その願う所を問う。卒曰く、「廁下より出で、名器を願わず。少くして執鞭に苦しみ、恒に快く酒を飲むを得ざるを患う。酒をして余年に足らしめば、畢わらん」と。復た須うる所無し。冰は為に大舎を起こし、奴婢を市い、門内に百斛の酒有らしめて、その身を終えさせたり。時に謂う、この卒は唯だ智有るのみならず、且つ亦た生に達すと。
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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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