智囊 / 通簡・宋真宗
宋真宗朝,嘗有兵士作過,於法合死,持貸命決脊杖二十改配。其兵士高聲叫喚乞劍,不服決杖,從人把捉不得,遂奏取進止。傳宣云:「須決杖後別取進止處斬。」尋決訖取旨,真宗云:「此只是怕吃杖。既決了,便送配所,莫問。」
新字:宋真宗朝,嘗有兵士作過,於法合死,持貸命決脊杖二十改配。其兵士高声叫喚乞剣,不服決杖,従人把捉不得,遂奏取進止。伝宣云:「須決杖後別取進止処斬。」尋決訖取旨,真宗云:「此只是怕吃杖。既決了,便送配所,莫問。」
書き下し
宋の真宗の朝、嘗て兵士の過ちを作す有り、法に於いて合に死すべく、貸命して決脊杖二十、配に改むるを持す。其の兵士は高声に叫喚して剣を乞い、杖を決せらるるに服せず、従人把捉する得ず、遂に奏して進止を取る。伝宣して云う、「須く杖を決して後、別に進止を取りて斬るべし」と。尋いで決し訖りて旨を取る。真宗云う、「此れは只だ是れ杖を吃うを怕るるのみ。既に決し了れば、便ち配所に送れ、問う莫かれ」と。
現代語訳
宋の真宗の時代、ある兵士が罪を犯し、法では死刑に当たるはずだったが、命を助けて背に杖打ち二十回を加え、流罪に改めることにした。その兵士は大声で叫び、剣で死にたいと言い、杖打ちを受け入れず、従者も押さえられなかったので、上奏して指示を仰いだ。伝えられた命令はこうであった。「まず杖打ちを済ませ、そのあと改めて斬首の指示を仰げ」。杖打ちが終わってから指示を仰ぐと、真宗は言った。「これは単に杖打ちを恐れていただけだ。杖打ちが済んだのなら、すぐ流刑の場所に送れ。それ以上は問うな」。
解説
兵士は、死罪が免じられたのに杖打ちを拒み、剣で死にたいと叫びました。これは処罰の苦痛を恐れた駄々で、本気で死を望んでいるわけではありません。真宗は、順序を入れ替えて先に杖打ちを行い、終わった後には本来の判断を取り下げました。要求を正面から受けず、事実を見抜いて処理した冷静さがあります。現代でも、感情的な抵抗は本心とは限らず、慌てて譲歩すると前例になります。実質を見極め、流れの順番を変える工夫で、騒ぎを収める技術です。
この章句が説くこと
貸命決脊杖怕吃杖感情的抵抗見極め順序の工夫
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