智囊 / 遠猶・孫叔敖
孫叔敖疾將死,戒其子曰:「王亟封我矣,吾不受也。為我死,王則封汝。汝必無受利地!楚、越之間有寢丘,若地不利而名甚惡,楚人鬼而越人禨,可長有者唯此也。」孫叔敖死,王果以美地封其子,子辭而不受,請寢丘。與之,至今不失。
新字:孫叔敖疾将死,戒其子曰:「王亟封我矣,吾不受也。為我死,王則封汝。汝必無受利地!楚、越之間有寝丘,若地不利而名甚悪,楚人鬼而越人禨,可長有者唯此也。」孫叔敖死,王果以美地封其子,子辞而不受,請寝丘。与之,至今不失。
書き下し
孫叔敖、疾み将に死せんとして、其の子を戒めて曰く、「王は亟しば我を封ぜんとせしも、吾は受けざりき。我が死するが為に、王は則ち汝を封ぜん。汝は必ず利ある地を受くる無かれ。楚、越の間に寝丘有り、地は利ならずして名は甚だ悪く、楚人は鬼とし越人は機とす。長く有つべき者は唯だ此のみ」と。孫叔敖死し、王果たして美地を以て其の子を封ず。子辞して受けず、寝丘を請う。之を与え、今に至るまで失わず。
現代語訳
孫叔敖は病んで死にそうになったとき、息子に戒めて言った。「王はたびたび私に領地を与えようとしたが、私は受けなかった。私が死んだら、王はおまえに領地を与えるだろう。おまえは決して肥えた土地を受けてはならない。楚と越の間に寝丘という土地がある。土地は痩せていて名も悪く、楚の人は鬼の住む所と言い、越の人は不吉と言う。末永く持ち続けられるのは、ここだけだ」。孫叔敖が死ぬと、王は果たして良い土地を息子に与えようとした。息子は辞退して受けず、寝丘を願った。そこを与えられ、今に至るまで失っていない。
解説
孫叔敖は、領地をねらう者が現れやすい肥えた土地を受けると、子孫が争いに巻き込まれて失うことを知っていました。そこで、誰も欲しがらない土地をあえて選ばせ、結果として長く保てました。価値の高いものが必ずしも守りやすいとは限らず、人が欲しがらないものにこそ安定があります。現代の経営でも、儲かる分野ほど競争と妬みが集まります。短期の収益より、自社が守り続けられる領域を選ぶ視点は、事業承継の場面でも示唆に富みます。遺す者の最後の仕事は、後継者が奪われない形を整えておくことです。
この章句が説くこと
寝丘地不利而名悪可長有事業承継辞退安定
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