智囊 / 遠猶・陳仲微・陳寔
仲微初為莆田尉,署縣事。縣有誦仲微於當路,而密授以薦牘者,仲微受而藏之。逾年,其家負縣租,竟逮其奴,是人有怨言。仲微還其牘,緘封如故。是人慚謝。寔,字仲弓,以名德為世所宗。桓帝時,黨事起,逮捕者眾,人多避逃,寔曰:「吾不就獄,眾無所恃。」竟詣獄請囚,會赦得釋。靈帝初,中常侍張讓權傾天下。讓父死,歸葬穎川,雖一郡畢至,而名士無往者,寔獨弔焉。後復誅黨人,讓以寔故,頗多全活。〔馮述評〕即菩薩捨身利物,何以加此?狄梁公之事偽周,鳩摩羅什之事苻秦,皆是心也。
新字:仲微初為莆田尉,署県事。県有誦仲微於当路,而密授以薦牘者,仲微受而蔵之。逾年,其家負県租,竟逮其奴,是人有怨言。仲微還其牘,緘封如故。是人慚謝。寔,字仲弓,以名徳為世所宗。桓帝時,党事起,逮捕者衆,人多避逃,寔曰:「吾不就獄,衆無所恃。」竟詣獄請囚,会赦得釈。霊帝初,中常侍張譲権傾天下。譲父死,帰葬穎川,雖一郡畢至,而名士無往者,寔独弔焉。後復誅党人,譲以寔故,頗多全活。〔馮述評〕即菩薩捨身利物,何以加此?狄梁公之事偽周,鳩摩羅什之事苻秦,皆是心也。
書き下し
仲微、初め莆田の尉と為り、県事を署す。県に仲微を当路に誦し、密かに薦牘を授くる者有り。仲微受けて之を蔵す。年を逾え、其の家県租を負い、竟に其の奴を逮う。是の人怨言有り。仲微其の牘を還すに、緘封すること故の如し。是の人慚謝す。寔、字は仲弓、名徳を以て世の宗とする所と為る。桓帝の時、党事起こり、逮捕せらるる者衆く、人多く避逃す。寔曰く、「吾獄に就かずんば、衆は恃む所無し」と。竟に獄に詣りて囚われんことを請う。赦に会いて釈さる。霊帝の初め、中常侍張譲、権天下を傾く。譲の父死し、潁川に帰葬するに、一郡畢く至ると雖も、名士の往く者無し。寔独り弔す。後復た党人を誅するに、譲は寔の故を以て、頗る多く全活す。〔馮述評〕即ち菩薩の捨身利物も、何を以て此に加えん。狄梁公の偽周に事え、鳩摩羅什の苻秦に事えしも、皆是の心なり。
現代語訳
陳仲微は初め莆田の県尉となり、県の事務を代行していた。県内に、陳仲微を高官に推薦し、密かに推薦状を渡した者がいた。陳仲微は受け取ってしまっておいた。一年余りのち、その者の家が県の租税を滞納したため、陳仲微はとうとうその家の下僕を逮捕した。その人は恨み言を言った。陳仲微は推薦状を返したが、封がもとのままだった。その人は恥じて謝った。陳寔、字は仲弓は、名声と徳で世の人に尊ばれていた。桓帝の時代に党錮の事件が起こり、逮捕される者が多く、人々は多く逃げ隠れた。陳寔は言った。「私が獄に入らなければ、皆は頼るものがなくなる」。ついに自ら獄に行って囚われの身となることを願い出た。恩赦に遭って釈放された。霊帝の初め、中常侍の張譲の権勢は天下を傾けた。張譲の父が死に、潁川に帰って葬られたとき、一郡の者がみな来たが、名士で行く者はいなかった。陳寔だけが弔問した。のち再び党人を処刑したとき、張譲は陳寔のゆえに、多くの人を助けた。〔馮夢龍の評〕菩薩が身を捨てて人を利するのも、これ以上ではない。狄仁傑が偽の周に仕え、鳩摩羅什が苻秦に仕えたのも、みなこの心である。
解説
この章句が説くこと
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史記 周本紀是に於て武王遍く諸侯に告げて曰く、「殷重罪有り、以て畢く伐たざる可からず」と。乃ち文王に遵ひ、遂に戎車三百乗、虎賁三千人、甲士四万五千人を率ゐて、以て東のかた紂を伐つ。十一年十二月戊午、師畢く盟津を渡り、諸侯咸会す。曰く、「孳孳として怠ること無かれ」と。武王乃ち太誓を作り、衆庶に告ぐ。「今殷王紂乃ち其の婦人の言を用ゐ、自ら天に絶ち、其の三正を毀壊し、其の王父母弟を離逖し、乃ち其の先祖の楽を断棄し、乃ち淫声を為り、用て正声を変乱し、婦人を怡説せしむ。故に今予発維れ共に天罰を行ふ。勉めよや夫子、再びす可からず、三たびす可からず」と。二月甲子の昧爽、武王朝に商の郊の牧野に至り、乃ち誓ふ。武王左に黄鉞を杖き、右に白旄を秉りて、以て麾く。曰く、「遠きかな西土の人」と。武王曰く、「嗟、我が有国の冢君、司徒・司馬・司空、亜旅・師氏、千夫長・百夫長、及び庸・蜀・羌・髳・微・纑・彭・濮の人、爾の戈を称げ、爾の干を比べ、爾の矛を立てよ。予其れ誓はん」と。王曰く、「古人言へる有り、『牝雞は晨する無し。牝雞の晨するは、惟れ家の索くるなり』と。今殷王紂は維れ婦人の言を是れ用ゐ、自ら其の先祖の肆祀を棄てて答へず、昏くして其の家国を棄て、其の王父母弟を遺てて用ゐず、乃ち維れ四方の多罪の逋逃を、是れ崇び是れ長とし、是れ信じ是れ使ひ、百姓に暴虐し、以て商国に姦軌せしむ。今予発維れ共に天の罰を行ふ。今日の事は、六歩七歩を過ぎずして、乃ち止まりて斉へよ。夫子勉めよや。四伐五伐六伐七伐を過ぎずして、乃ち止まりて斉へよ。勉めよや夫子。尚はくは桓桓として、虎の如く羆の如く、豺の如く離の如く、商の郊に于いて、奔るを御ぐことなく、以て西土に役せしめよ。勉めよや夫子。爾勉めざる所あらば、其れ爾の身に于いて戮有らん」と。
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『驢鞍橋』卷上壬辰霜月十一日の晩、去る寺に到る次で、大衆に対して曰く、当寺の大衆一様に志出来、目出度事也。次第に大事も起るべし。兎角此中から起るべし。是れ仏法繁昌の基也。則ち示曰、仏法の至極したる処を大義と云ふ也。義無くして修行成るべからす。今人間に生を得、殊に仏弟子と為りながら、餓鬼畜生の心にて居る事無念なりと思ひ定め、血の涙を流し、跳り上つて仏意を修せで不叶と、自ら眼をすゑ拳を握り、咦と牙を咬み給ふ。
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史記 楚世家九年、若敖氏に相たり。人或いは之を王に讒す。誅せられんことを恐れ、反って王を攻む。王撃ちて若敖氏の族を滅ぼす。十三年、舒を滅ぼす。十六年、陳を伐ち、夏徴舒を殺す。徴舒其の君を弑す。故に之を誅するなり。已に陳を破り、即ち之を県とす。群臣皆賀す。申叔時斉に使ひして来たり、賀せず。王問ふ。対へて曰く、「鄙語に曰く、牛を牽きて人の田を徑(わた)れば、田主其の牛を取る、と。徑る者は則ち直からず。之が牛を取るは亦た甚だしからずや。且つ王陳の乱を以て諸侯を率ゐて之を伐つ。義を以て之を伐ちて其の県を貪る。亦た何を以て復た天下に令せん」と。荘王乃ち陳の後を復国す。十七年春、楚の荘王鄭を囲み、三月にして之に克つ。皇門より入る。鄭伯肉袒し羊を牽きて以て逆へて曰く、「孤天ならず、君に事ふること能はず。君用て怒りを懐き、以て敝邑に及ぶ。孤の罪なり。敢て惟だ命を是れ聴かざらんや。之を南海に賓(しりぞ)くるも、若しくは臣妾を以て諸侯に賜ふも、亦た惟だ命を是れ聴かん。若し君厲・宣・桓・武を忘れず、其の社稷を絶たず、改めて君に事へしめば、孤の願ひなり。敢て望む所に非ざるなり。敢て腹心を布く」と。楚の群臣曰く、「王許すこと勿かれ」と。荘王曰く、「其の君能く人に下る。必ず能く其の民を信用せん。庸ぞ絶つべけんや」と。荘王自ら旗を手にし、左右に軍を麾(さしまね)き、兵を引きて去ること三十里にして舎り、遂に之に平らぐことを許す。潘尪入りて盟ひ、子良出でて質たり。夏六月、晋鄭を救ひ、楚と戦ふ。大いに晋の師を河上に敗り、遂に衡雍に至りて帰る。二十年、宋を囲む。楚の使ひを殺せしを以てなり。宋を囲むこと五月、城中食尽き、子を易へて食らひ、骨を析きて炊ぐ。宋の華元出でて告ぐるに情を以てす。荘王曰く、「君子なるかな」と。遂に兵を罷めて去る。二十三年、荘王卒し、子の共王審立つ。共王の十六年、晋鄭を伐つ。鄭急を告ぐ。共王鄭を救ふ。晋の兵と鄢陵に戦ふ。晋楚を敗り、共王の目に射中つ。共王将軍子反を召す。
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『春秋左氏伝』哀公十四年 陳恒、簡公を弑す六月、左師巢をして之を伐たしむ。大夫を質として以て入らんと欲す。能はず。亦た曹に入りて質を取らんとす。魋曰く、「不可なり。既に君に事ふる能はず、又罪を民に得ば、將に之を若何せん」と。乃ち之を舍(ゆる)す。民遂に之に叛く。向魋衛に奔る。向巢來奔す。宋公之を止めしめて曰く、「寡人子と言有り。以て向氏の祀を絕つ可からず」と。辭して曰く、「臣の罪大なり。盡く桓氏を滅ぼすも可なり。若し先臣の故を以て、後有らしめば、君の惠なり。臣の若きは則ち以て入る可からず」と。司馬牛其の邑と珪とを致して、齊に適く。向魋衛の地に出づ。公文氏之を攻め、夏后氏の璜を求む。之に他の玉を與へて、齊に奔る。陳成子次卿と為さしむ。司馬牛又其の邑を致して、吳に適く。吳人之を惡みて反る。趙簡子之を召き、陳成子も亦た之を召く。魯の郭門の外に卒す。阬氏諸を丘輿に葬る。甲午、齊の陳恆其の君壬を舒州に弒す。孔丘三日齊(ものいみ)して、齊を伐たんことを請ふこと三たび。公曰く、「魯の齊の為に弱めらるること久し。子の之を伐つ、將に之を若何せん」と。對へて曰く、「陳恆其の君を弒す。民の與せざる者半ばなり。魯の眾を以て、齊の半ばに加へば、克つ可きなり」と。公曰く、「子季孫に告げよ」と。孔子辭す。退きて人に告げて曰く、「吾大夫の後に從ふを以てなり。故に敢へて言はずんばあらず」と。初め孟孺子洩將に馬を成に圉(か)はんとす。成の宰公孫宿受けずして曰く、「孟孫成の病なるが為に、焉に馬を圉はず」と。孺子怒り、成を襲ふ。從者入るを得ず。乃ち反る。成の有司使ひす。孺子之を鞭うつ。秋八月辛丑、孟懿子卒す。成人喪に奔る。內(い)れず。袒免して衢に哭し、共を聽かんとす。許さず。懼れて歸らず。
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史記 魏公子列伝公子行く、侯生曰く、「将は外に在りては、主の令も受けざる所有り、以て国家に便ならしむ。公子即ち符を合はするも、晋鄙公子に兵を授けずしてまたこれを請はば、事必ず危ふし。臣の客の屠者朱亥、与に倶にすべし、此の人は力士なり。晋鄙聴かば、大いに善し。聴かずんば、これを撃たしむべし」と。是に於いて公子泣く。侯生曰く、「公子死を畏るるか、何ぞ泣くや」と。公子曰く、「晋鄙は嚄唶の宿将なり、往くも恐らくは聴かず、必ず当にこれを殺すべし、是を以て泣くのみ。豈に死を畏れんや」と。是に於いて公子朱亥に請ふ。朱亥笑ひて曰く、「臣は乃ち市井に刀を鼓する屠者なり、而るに公子親ら数々これを存す。報謝せざる所以の者は、以為へらく小礼は用ふる所無しと。今公子急有り、此れ乃ち臣の命を效すの秋なり」と。遂に公子と倶にす。公子過りて侯生に謝す。侯生曰く、「臣宜しく従ふべきも、老いて能はず。請ふ公子の行く日を数へ、以て晋鄙の軍に至るの日、北郷して自剄し、以て公子を送らん」と。公子遂に行く。鄴に至り、魏王の令を矯めて晋鄙に代はらんとす。晋鄙符を合はせ、これを疑ひ、手を挙げて公子を視て曰く、「今、吾十万の衆を擁し、境上に屯す、国の重任なり。今単車にて来たりてこれに代はる、何如ぞや」と。聴くこと無からんと欲す。朱亥、四十斤の鉄椎を袖にし、晋鄙を椎殺す。公子遂に晋鄙の軍に将たり。兵を勒して令を軍中に下して曰く、「父子倶に軍中に在らば、父は帰れ。兄弟倶に軍中に在らば、兄は帰れ。独子にして兄弟無きは、帰りて養へ」と。選兵八万人を得、兵を進めて秦の軍を撃つ。秦の軍解きて去り、遂に邯鄲を救ひ、趙を存す。趙王及び平原君自ら公子を界に迎へ、平原君は籣矢を負ひて公子の為に先引す。趙王再拝して曰く、「古より賢人未だ公子に及ぶ者有らざるなり」と。此の時に当たりて、平原君敢へて自ら人に比せず。公子、侯生と決す、軍に至る、侯生果たして北郷して自剄す。
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『春秋左氏伝』僖公二十五年 勤王の計二十五年春、衛人邢を伐つ。二禮國子に從ひて城を巡り、掖へて以て外に赴き、之を殺す。正月、丙午。衛侯燬邢を滅ぼす。同姓なり、故に名いふ。禮至銘を為りて曰く、「余國子を掖へて殺す、余を敢へて止むる莫し」と。秦伯河上に師し、將に王を納れんとす。狐偃晉侯に言ひて曰く、「諸侯を求むるは王に勤むるに如くは莫し。諸侯之を信じ、且つ大義なり。文の業を繼ぎて、信諸侯に宣ぶるは、今可と為す」と。卜偃をして之を卜せしむ、曰く、「吉なり。黃帝阪泉に戰ふの兆に遇ふ」と。公曰く、「吾堪へざるなり」と。對へて曰く、「周禮未だ改まらず、今の王は、古の帝なり」と。公曰く、「之を筮せよ」と。之を筮して、大有の睽に之くに遇ふ、曰く、「吉なり。公用て天子に享せらるるの卦に遇ふなり。戰ひて克ちて王饗す、吉孰れか大ならん。且つ是の卦や、天澤と為りて以て日に當たる、天子心を降して以て公を逆ふ、亦た可ならずや。大有睽を去りて復る、亦た其の所なり」と。晉侯秦の師を辭して下る。三月、甲辰。陽樊に次る。右師溫を圍み、左師王を逆ふ。夏、四月、丁巳。王王城に入り、大叔を溫に取り、之を隰城に殺す。
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