智囊 / 遠猶・郭欽
漢魏以來,羌、胡、鮮卑降者,多處之塞內諸郡。其後數因忿恨,殺害長吏,漸為民患。侍御史郭欽請及平吳之威、謀臣猛將之略,漸徙內郡雜胡於邊地,峻四夷出入之防,明先王荒服之制。此萬世長策也。不聽。卒有五胡之亂。〔馮述評〕只有開國餘威可乘,失此則無能為矣。宋初不能立威契丹,卒使金、元之禍相尋終始;我太祖北逐金、元,威行沙漠,文皇定鼎燕都,三黎來庭,豈非萬世久安之計乎!
新字:漢魏以来,羌、胡、鮮卑降者,多処之塞内諸郡。其後数因忿恨,殺害長吏,漸為民患。侍御史郭欽請及平呉之威、謀臣猛将之略,漸徙内郡雑胡於辺地,峻四夷出入之防,明先王荒服之制。此万世長策也。不聴。卒有五胡之乱。〔馮述評〕只有開国余威可乗,失此則無能為矣。宋初不能立威契丹,卒使金、元之禍相尋終始;我太祖北逐金、元,威行沙漠,文皇定鼎燕都,三黎来庭,豈非万世久安之計乎!
書き下し
漢魏以来、羌・胡・鮮卑の降る者は、多く之を塞内の諸郡に処く。其の後、数ば忿恨に因りて、長吏を殺害し、漸く民の患いと為る。侍御史の郭欽、請う、呉を平らげたる威、謀臣猛将の略に及び、漸く内郡の雑胡を辺地に徙し、四夷の出入の防を峻にし、先王の荒服の制を明らかにせんことを。此れ万世の長策なり。聴かれず。卒に五胡の乱有り。〔馮述評〕只だ開国の余威の乗ずべき有るのみ。此れを失えば則ち能く為す無し。宋の初め、威を契丹に立つる能わず、卒に金・元の禍をして相い尋ぎて終始せしむ。我が太祖は北のかた金・元を逐い、威は沙漠に行われ、文皇は鼎を燕都に定め、三黎来庭す。豈に万世久安の計に非ずや。
現代語訳
漢・魏以来、羌・胡・鮮卑の降伏した者たちは、多く塞の内側の諸郡に住まわされました。その後、たびたび恨みや怒りのために、地方の長官を殺害し、しだいに民の患いとなりました。侍御史の郭欽は、呉を平定した威勢と、謀臣や猛将の計略を利用して、内郡の雑居する胡人を少しずつ辺境の地に移し、四方の異民族の出入りの防備を厳しくし、先王の荒服(辺境を遠く統制する)の制度を明らかにすることを願い出ました。これは万世にわたる長期の策でした。しかし聞き入れられませんでした。ついに五胡の乱が起こりました。〔馮夢龍の評〕ただ、国を開いたばかりの余勢がまだ使える時期があるだけで、これを失えば何もできません。宋の初めは契丹に威を示せず、ついに金・元の禍が相次いで終始つきまといました。わが太祖(朱元璋)は北のかた金・元を追い払い、威は砂漠にまで行き渡り、文皇(永楽帝)は都を燕に定めて、遠い国々が朝廷に参りました。万世にわたる長い安定の計ではありませんか。
解説
この章句が説くこと
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『新論』國體中其の弛張の機、用捨の権の如きは、則ち之に処するに方有り、之を発するに時有り。朝聘の疎数、去留の久近、職貢の軽重、征役の施舎は、一を執りて論ずべからず。其の変に通じ、民をして倦まざらしむるは、要は機会に投ずるに在るのみ。然らずんば則ち徒に旧轍を守りて以て天下を把持せんと欲するも、而も浜海寡弱の卒、或いは一たび敗衄を致さば、勢固より其の君を遣はして国に就かしめざるを得ざるなり。均しく之を遣はすに、先んじて自ら断ずることを為さず、情見はれ勢屈するに至りて、然る後已むを得ずして之を遣はさば、適に以て侮りを天下に取るに足るのみ。故に曰く、先んずれば則ち人を制し、後るれば則ち人に制せらると。今天下を制御せんと欲して、縦送磬控するは、其の機断と不断とに在り。古人曰く、断じて之を行へば、鬼神も之を避くと。況や行ふ所乃ち鬼神の祐くる所なるをや。
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『長短経』三国権更始の敗れしより後、光武は方に山東を事とし、未だ西伐するに遑あらず。関中の豪傑、多く衆を擁して述に帰す。其の後、平陵の人荊邯、東方将に平らがんとし、兵且に西に向かわんとするを見て、述に説きて曰く「兵なる者は、帝王の大器にして、古今の廃すること能わざる所なり。隗囂は運会に遭遇し、雍州を割有し、兵強く士附き、威は山東に加わる。此の時に及びて危うきを推し勝ちに乗じて、以て大命を争わず、而して返りて西伯の事を為さんと欲し、武を偃せ戈を息め、辞を卑くして漢に事え、喟然として自ら以て文王の復た出づと為す。今、漢帝は関隴の憂いを釈き、専ら精を東伐に致し、天下を四分して其の三を有す。西州の豪傑をして、咸な心を山東に居かしめ、間使を発し、携弐を招かば、則ち五分して其の四を有たん。若し兵を天水に挙げば、必ず沮潰に至らん。天水既に定まらば、則ち九分して其の八を有たん。陛下は梁州の地を以て、内は万乗を奉じ、外は三軍に給し、百姓愁困して、上命に堪えず、将に王氏自潰の変有らんとす。臣の愚計、以為えらく、宜しく天人の望み未だ絶えず、豪傑尚お招誘すべきに及び、急ぎ此の時を以て国内の精兵を発すべし。田戎をして江陵に拠り、江南の会に臨み、巫山の固きに倚り、塁を築きて堅守し、檄を呉・楚に伝えしめば、長沙以南は必ず風に随いて靡かん。延岑をして漢中を出で、三輔・天水を定めしめば、隴西は手を拱きて自ら服せん。此くの如くんば海内震揺し、大利有らんことを冀う」と。
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孫子・虚実篇孫子曰く、凡そ先に戦地に処して敵を待つ者は佚く、後に戦地に処して戦いに趨く者は労す。
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