智囊 / 見大・呂夷簡
〔馮述評〕不為介雪,乃深於雪。當介作頌時,正呂許公罷相,而晏殊,章得象同升,許公不念私憾而念國體,真宰相度也!李太后服未除,而夷簡即勸仁宗立曹後。范仲淹進曰:「呂夷簡又教陛下做一不好事矣。」他日,夷簡語韓琦曰:「此事外人不知,上春秋高,郭后、尚美人皆以失寵廢,後宮以色進者不可勝數。不亟立後,無以正之。」每事自有深意,多此類也。
新字:〔馮述評〕不為介雪,乃深於雪。当介作頌時,正呂許公罷相,而晏殊,章得象同升,許公不念私憾而念国体,真宰相度也!李太后服未除,而夷簡即勧仁宗立曹後。范仲淹進曰:「呂夷簡又教陛下做一不好事矣。」他日,夷簡語韓琦曰:「此事外人不知,上春秋高,郭后、尚美人皆以失寵廃,後宮以色進者不可勝数。不亟立後,無以正之。」毎事自有深意,多此類也。
書き下し
〔馮述評〕介の為に雪がず、乃ち雪ぐより深し。介の頌を作る当時、正に呂許公の相を罷めたる時にして、晏殊・章得象は同じく升る。許公は私憾を念わずして国体を念う、真に宰相の度なり。李太后の服未だ除かざるに、夷簡は即ち仁宗に曹后を立てんことを勧む。范仲淹進みて曰く、「呂夷簡、又た陛下に一つの不好の事を教えたり」と。他日、夷簡、韓琦に語りて曰く、「此の事は外人知らず。上は春秋高く、郭后・尚美人は皆な寵を失うを以て廃され、後宮の色を以て進む者は勝げて数うべからず。亟かに后を立てずんば、以て之を正す無し」と。事ごとに自ずから深意有りて、多く此の類なり。
現代語訳
〔馮夢龍の評〕石介のために無実を訴えなかったのは、訴えるよりもっと深い配慮でした。石介が頌を作ったころ、ちょうど呂夷簡が宰相を罷免されたところで、晏殊と章得象が同時に昇進していました。それでも許公は私的な恨みを思わず、国の体面を思いました。まことに宰相の度量です。李太后の喪が明けないうちに、夷簡はすぐ仁宗に曹皇后を立てるよう勧めました。范仲淹は進み出て言いました。「呂夷簡は、また陛下に一つ好ましくないことを教えました。」のちに夷簡は韓琦に言いました。「この事情は外の人は知らない。陛下は年も重ねられ、郭皇后や尚美人は寵愛を失って廃された。後宮には、容色で取り立てられる者が数えきれないほどいる。早く皇后を立てなければ、これを正すことはできない。」何事にも自ずから深い意図があり、多くはこの類です。
解説
この章句が説くこと
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