智囊 / 見大・董公
漢王至洛陽,新城三老董公遮說王曰:「兵出無名,事故不成,故曰:『明其為賊,敵乃可服。』天下共立義帝,項羽放弒之,大王宜率三軍之眾,為之素服,以告諸侯而伐之。」於是漢王為義帝發喪,兵皆縞素,告諸侯曰:「寡人悉發關中兵,收三河士,南浮江、漢以下,願從諸侯王擊楚之弒義帝者。」〔馮述評〕董公此說,乃劉、項曲直分判處。隨何招九江,酈生下全齊,其陳說皆本此。許庸齋謂沛公激發天下大機括,子房號為帝師,亦未有此大計。國朝盧廷選進士為楚臬,暴卒,良久而蘇,自言為項羽訟高帝事:高帝自遣九江王布弒義帝,而佯委罪羽,縞素發喪以欺天下後世,盧在漢即九江王也,事甚怪。
新字:漢王至洛陽,新城三老董公遮説王曰:「兵出無名,事故不成,故曰:『明其為賊,敵乃可服。』天下共立義帝,項羽放弒之,大王宜率三軍之衆,為之素服,以告諸侯而伐之。」於是漢王為義帝発喪,兵皆縞素,告諸侯曰:「寡人悉発関中兵,収三河士,南浮江、漢以下,願従諸侯王撃楚之弒義帝者。」〔馮述評〕董公此説,乃劉、項曲直分判処。随何招九江,酈生下全斉,其陳説皆本此。許庸斎謂沛公激発天下大機括,子房号為帝師,亦未有此大計。国朝盧廷選進士為楚臬,暴卒,良久而蘇,自言為項羽訟高帝事:高帝自遣九江王布弒義帝,而佯委罪羽,縞素発喪以欺天下後世,盧在漢即九江王也,事甚怪。
書き下し
漢王、洛陽に至るや、新城の三老董公、遮りて王に説いて曰く、「兵出でて名無ければ、事故より成らず。故に曰く、『その賊たるを明らかにすれば、敵乃ち服すべし』と。天下共に義帝を立てしに、項羽これを放ち弑す。大王宜しく三軍の衆を率い、これが為に素服し、以て諸侯に告げてこれを伐つべし」と。是に於て漢王は義帝の為に発喪し、兵は皆な縞素し、諸侯に告げて曰く、「寡人、悉く関中の兵を発し、三河の士を収め、南のかた江・漢に浮かびて以下り、願わくは諸侯王に従いて楚の義帝を弑せし者を撃たん」と。〔馮述評〕董公のこの説は、乃ち劉・項の曲直分判の処なり。随何の九江を招き、酈生の全斉を下せしは、その陳説は皆な此に本づく。許庸斎は、沛公の天下の大機括を激発せしは、子房の帝師と号するも、亦た未だ此の大計有らずと謂えり。国朝の盧廷選、進士にして楚の臬と為り、暴かに卒し、良や久しくして蘇り、自ら項羽の為に高帝の事を訟うと言う。高帝は自ら九江王布を遣わして義帝を弑し、而して佯りて罪を羽に委ね、縞素して発喪し、以て天下後世を欺けり。盧は漢に在りては即ち九江王なり、と。事は甚だ怪し。
現代語訳
漢王(劉邦)が洛陽に着くと、新城の三老(郷の長老)の董公が道をさえぎって王に説きました。「軍を出すのに大義名分がなければ、事は成りません。そのため『相手が賊であることを明らかにすれば、敵は服する』と言います。天下がともに義帝を立てたのに、項羽はこれを追放して殺しました。大王は全軍を率い、義帝のために喪服を着て、諸侯に告げて項羽を討つべきです。」そこで漢王は義帝の喪を発し、兵はみな白い喪服を着ました。そして諸侯に告げました。「わたしは関中の兵をすべて起こし、三河の士を集め、南の江水・漢水を下って、諸侯王に従い、楚の義帝を殺した者を討ちたい。」〔馮夢龍の評〕董公のこの説は、劉邦と項羽の正邪を分けた要所です。随何が九江王を招き、酈生が斉の全土を降したときの弁舌も、みなここに基づいています。許庸斎は、沛公が天下を動かす大きな仕掛けを発動させたのは、張良が帝師と呼ばれても、この大計にはおよばなかったと述べています。わが明朝の盧廷選は、進士で楚の按察使になりましたが、急死して、しばらくして蘇り、自分は項羽のために高帝の件を訴えたと語りました。高帝は自ら九江王の英布を遣わして義帝を殺させ、偽って罪を項羽になすりつけ、喪服で発喪して天下後世をだましたというのです。盧は漢の時代には九江王であったといいます。事はまことに怪しい話です。
解説
この章句が説くこと
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史記 高祖本紀新城の三老董公遮りて漢王に説くに義帝の死せし故を以てす。漢王之を聞き、袒して大いに哭す。遂に義帝の為に喪を発し、臨すること三日。使者を発して諸侯に告げて曰く、「天下共に義帝を立て、北面して之に事ふ。今項羽義帝を江南に放殺す、大逆無道なり。寡人親ら為に喪を発す、諸侯皆縞素せよ。悉く関内の兵を発し、三河の士を収め、南のかた江漢に浮かびて以て下り、願はくは諸侯王に従ひて楚の義帝を殺せし者を撃たん。」と。是の時項王北のかた斉を撃つ、田栄与に城陽に戦ふ。田栄敗れ、平原に走る、平原の民之を殺す。斉皆楚に降る。楚因りて其の城郭を焚焼し、其の子女を系虜す。斉人之に叛く。田栄の弟横栄の子広を立てて斉王と為す、斉王楚に城陽に反す。項羽漢の東すと聞くと雖も、既已に斉の兵と連なる、遂に之を破りて漢を撃たんと欲す。漢王故を以て五諸侯の兵を劫かすを得て、遂に彭城に入る。項羽之を聞き、乃ち兵を引きて斉を去り、魯より胡陵に出で、蕭に至り、漢と彭城の霊壁の東睢水の上に大いに戦ひ、大いに漢の軍を破り、多く士卒を殺す、睢水之が為に流れず。乃ち漢王の父母妻子を沛に取り、之を軍中に置きて以て質と為す。是の時に当たりて、諸侯楚の彊く漢の敗るるを見て、還りて皆漢を去りて復た楚と為る。塞王欣亡げて楚に入る。呂后の兄周呂侯漢の為に兵を将ゐ、下邑に居る。漢王之に従ひ、稍々士卒を収め、碭に軍す。漢王乃ち西のかた梁の地を過ぎ、虞に至る。謁者随何をして九江王布の所に之かしめて、曰く、「公能く布をして兵を挙げて楚に叛かしめば、項羽必ず留まりて之を撃たん。留まること数月を得ば、吾天下を取ること必せり。」と。随何往きて九江王布に説く、布果たして楚に背く。楚龍且をして往きて之を撃たしむ。漢王の彭城に敗れて西するや、行くゆく人をして家室を求めしむ、家室も亦亡げ、相得ず。
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『長短経』覇図是に於て漢王大いに喜び、遂に信の計を聴く。初め、漢王の国にするや、張良、送りて褒中に至り、漢王に説きて曰く「王、何ぞ過ぐる所の桟道を焼絶して、天下に還る心無きを示し、以て項王の意を固くせざる」と。漢王乃ち張良をして還らしめ、因りて之を焼く。楚、此を以て漢王を憂うるの心無きなり。〉田栄、項王の己を立てざるを怨み、田市を殺し、自立して斉王と為る。羽、北のかた撃ちて斉を滅ぼす。〈項羽、呉の令鄭昌を以て韓王と為して漢を拒がしむ。張良、項羽に書を遺りて曰く「漢王、職を失いて蜀に之く。関中に王たるを得んと欲す。約の如くば即ち止み、敢えて反せず」と。又た斉の反書を以て羽に遺りて曰く「斉、楚を滅ぼさんと欲す」と。羽、故を以て西行せずして、北のかた斉を撃つ。〉而して九江王をして義帝を郴に殺さしむ。漢王、之が為に縞素して喪を発し、臨すること三日、以て諸侯に告ぐ。〈董公、漢王に説きて曰く「臣聞く、徳に順う者は昌え、徳を失う者は亡ぶ。兵、名無くして出づれば、事、故に成らず、と。故に曰く、其の賊たるを明らかにせば、敵乃ち服す可し、と。項王、無道を為し、其の主を放殺す。天下の賊なり。夫れ仁は勇を以てせず、義は力を以てせず。三軍の衆、之が為に素服し、以て諸侯に告げ、之が為に東伐せば、四海の内、徳を仰がざるは莫からん。此れ三王の挙なり」と。漢王曰く「善し」と。〉
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『新序』善謀第十曰く、漢王項王と、力を戮せ西面して秦を擊つ。約すらく先に咸陽に入る者之に王たらしめん、と。漢王先に咸陽に入る。項王約に倍きて與えずして漢中に王たらしむ。項王義帝を遷殺す。漢王蜀漢の兵を起こして三秦を擊ち、關を出でて義帝の處を責め、天下の兵を收め、諸侯の後を立つ。城を降せば即ち以て其の將を侯とし、賂を得れば即ち以て其の士に予う。天下と其の利を同じくす。豪傑賢才皆な樂しみて其の用を爲す。諸侯の兵、四面より至り、蜀漢の粟、船を方べて下る。項王は約に倍くの名有り、義帝を殺すの實あり。人の功に於いて記す所無く、人の過ちに於いて忘るる所無し。戰い勝ちて其の賞を得ず、城を拔きて其の封を得ず。項氏に非ざれば事を用うるを得る莫し。人の爲に印を刻み、刓れて授くる能わず。城を攻めて賂を得るも、財を積みて賞する能わず。天下之に畔き、賢才之を怨みて、之が用を爲す莫し。故に天下の事、漢王に歸するは、坐して策す可きなり。夫れ漢王蜀漢を發し、三秦を定め、西河の外を涉り、上黨の兵に乘り、井陘を下し、成安を誅し、北魏を破り、三十二城を舉ぐ。此れ□尤の兵なり。人の力に非ざるなり。今已に敖倉の粟に據り、成皋の險を塞ぎ、白馬の津を守り、太行の阪を杜ぎ、蜚狐の口を距ぐ。天下後れて服する者は先ず亡びん。王疾かに漢王に下らば、齊國の社稷、得て保つ可きなり。漢王に下らずんば、危亡立ちどころに待つ可きなり、と。田橫以て然りと爲し、即ち酈生に聽き、歷下の兵戰守の備えを罷め、酈生と日ミ酒を縱にす。此れ酈生の謀なり。齊人蒯通韓信に說きて曰く、足下詔を受けて齊を擊つ。何の故に止まりて三軍の衆を將いて、一豎儒の功に如かざる。齊の備え無きに因りて之を擊つ可し、と。韓信之に從う。酈生田橫の害する所と爲る。後に信も通も亦た其の所を得ず。不仁に由るなり。
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史記 項羽本紀沛公張良に謂ひて曰く、「此の道より吾が軍に至るは、二十里に過ぎざるのみ。我軍中に至るを度りて、公乃ち入れ。」と。沛公已に去り、間(ひそ)かに軍中に至る、張良入りて謝して、曰く、「沛公桮杓に勝へず、辞する能はず。謹みて臣良をして白璧一双を奉じ、再拝して大王の足下に献じ、玉斗一双もて、再拝して大将軍の足下に奉ぜしむ。」と。項王曰く、「沛公安くに在る。」と。良曰く、「大王之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至れり。」と。項王則ち璧を受け、之を坐上に置く。亜父玉斗を受け、之を地に置き、剣を抜きて撞きて之を破りて、曰く、「唉(ああ)、豎子与に謀るに足らず。項王の天下を奪ふ者は、必ず沛公ならん、吾が属今に之が虜と為らん。」と。沛公軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅殺す。居ること数日、項羽兵を引きて西のかた咸陽を屠り、秦の降王子嬰を殺し、秦の宮室を焼く、火三月滅せず。其の貨宝婦女を収めて東す。人或いは項王に説きて曰く、「関中は山河を阻てて四塞、地肥饒なり、都して以て霸たるべし。」と。項王秦の宮皆以に焼けて残破せるを見、又心に懐ひて東帰せんことを思欲し、曰く、「富貴にして故郷に帰らざるは、繡を衣て夜行くが如し、誰か之を知る者ぞ。」と。説く者曰く、「人言ふ楚人は沐猴にして冠するのみと、果たして然り。」と。項王之を聞き、説く者を烹る。項王人をして命を懐王に致さしむ。懐王曰く、「約の如くせよ。」と。乃ち懐王を尊びて義帝と為す。項王自ら王たらんと欲し、先づ諸将相を王とす。謂ひて曰く、「天下初めて難を発せし時、仮に諸侯の後を立てて以て秦を伐つ。然れども身堅を被り鋭を執りて事を首め、野に暴露すること三年、秦を滅ぼし天下を定むる者は、皆将相諸君と籍との力なり。義帝は功無しと雖も、故より当に其の地を分かちて之を王とすべし。」と。諸将皆曰く、「善し。」と。乃ち天下を分かち、諸将を立てて侯王と為す。
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『長短経』覇図王曰く「先生、何を以て之を知る」と。酈生曰く「漢王と項羽と、力を戮せて西に向かい秦を撃つ。約すらく、先ず咸陽に入る者は之に王たらん、と。漢王先ず咸陽に入るも、項王、約に負きて与えず、而して之を漢中に王たらしむ。項羽、義帝を遷して殺す。漢王之を聞き、蜀漢の兵を起こし、三秦を撃ち、武関を出でて、義帝の処を責め、天下の兵を収め、諸侯の後を立つ。城を降せば即ち以て其の将を侯とし、賂を得れば即ち以て其の士に分かち、天下と其の利を同じくす。英豪賢士、皆な楽しみて之が用と為る。諸侯の兵、四面より至り、蜀漢の粟、万船にして下る。項王には約に背くの名、義帝を殺すの罪有り。人の功に於ては記す所無く、人の罪に於ては心に忘れず。戦い勝ちて其の賞を得ず、城を抜きて其の封を得ず。項氏に非ざれば、能く事を用うる莫し。人の為に印を刻みて、授くる能わず。城を攻めて賂を得るも、財を積みて賞する能わず。天下之に叛き、賢才之を怨みて、用を為す莫し。故に天下の士、漢王に帰すること、坐して策す可きなり。
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史記 酈生陸賈列伝方今燕・趙已に定まり、唯だ斉のみ未だ下らず。今田広は千里の斉に拠り、田間は二十万の衆を将ゐて、歴城に軍し、諸田の宗彊く、海を負ひ河済を阻み、南は楚に近く、人変詐多し。足下数十万の師を遣はすと雖も、未だ歳月を以て破るべからざるなり。臣請ふ明詔を奉じて斉王に説き、漢の為に東藩と称せしめん」と。上曰く、「善し」と。乃ち其の画に従ひ、復た敖倉を守り、而して酈生をして斉王に説かしめて曰く、「王は天下の帰する所を知るか」と。王曰く、「知らざるなり」と。曰く、「王天下の帰する所を知らば、則ち斉国得て有つべきなり。若し天下の帰する所を知らずんば、即ち斉国未だ得て保つべからざるなり」と。斉王曰く、「天下何れにか帰する所ぞ」と。曰く、「漢に帰す」と。曰く、「先生何を以て之を言ふ」と。曰く、「漢王と項王と力めて西面して秦を撃ち、先に咸陽に入る者之に王たらんと約す。漢王先に咸陽に入る。項王約に負きて与へずして之を漢中に王とす。項王義帝を遷殺す。漢王之を聞き、蜀漢の兵を起こして三秦を撃ち、関を出でて義帝の処を責め、天下の兵を収め、諸侯の後を立つ。城を降せば即ち以て其の将を侯とし、賂を得れば即ち以て其の士に分かち、天下と其の利を同じくす。豪英賢才皆楽しんで之が用を為す。諸侯の兵四面より至り、蜀漢の粟船を方べて下る。項王は約に倍くの名、義帝を殺すの負有り。人の功に於ては記する所無く、人の罪に於ては忘るる所無し。戦ひ勝ちて其の賞を得ず、城を抜きて其の封を得ず。項氏に非ざれば用事を得る莫し。人の為に印を刻し、刓(けず)れて授くる能はず。城を攻めて賂を得るも、積みて賞する能はず。天下之に畔き、賢才之を怨みて、之が用を為す莫し。故に天下の士の漢王に帰すること、坐して策すべきなり。
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