智囊 / 見大・嚴震
嚴震鎮山南,有一人乞錢三百千去過活。震召子公弼等問之。公弼曰:「此患風耳,大人不必應之。」震怒,曰:「爾必墜吾門!只可勸吾力行善事,奈何勸吾吝惜金帛?且此人不辦,向吾乞三百千,的非凡也!」命左右準數與之。於是三川之士歸心恐後,亦無造次過求者。〔馮述評〕天下無窮不肖事,皆從捨不得錢而起;天下無窮好事,皆從捨得錢而做。自古無捨不得錢之好人也!吳之魯肅、唐之於由頁、宋之范仲淹,都是肯大開手者。西吳董尚書潯陽公份,家富而勤於交接。凡衣冠過賓,無不延禮厚贈者。其孫禮部青芝公嗣成,工於詩字,往往以手書扇軸及詩稿贈人。尚書聞之曰:「以我家勢,雖日以金幣為歡,猶恐未塞人望,奈何效清客行事耶?且縉紳之家,自有局面,豈復以詩字得人憐乎?將來破吾家者,必此子也!」後民變事起,尚書已老,青芝公不諳世故,願自處分,愚民望處,一集千人,遂致破產。人始服尚書先見。
新字:厳震鎮山南,有一人乞銭三百千去過活。震召子公弼等問之。公弼曰:「此患風耳,大人不必応之。」震怒,曰:「爾必墜吾門!只可勧吾力行善事,奈何勧吾吝惜金帛?且此人不辦,向吾乞三百千,的非凡也!」命左右準数与之。於是三川之士帰心恐後,亦無造次過求者。〔馮述評〕天下無窮不肖事,皆従捨不得銭而起;天下無窮好事,皆従捨得銭而做。自古無捨不得銭之好人也!呉之魯粛、唐之於由頁、宋之范仲淹,都是肯大開手者。西呉董尚書潯陽公份,家富而勤於交接。凡衣冠過賓,無不延礼厚贈者。其孫礼部青芝公嗣成,工於詩字,往往以手書扇軸及詩稿贈人。尚書聞之曰:「以我家勢,雖日以金幣為歓,猶恐未塞人望,奈何効清客行事耶?且縉紳之家,自有局面,豈復以詩字得人憐乎?将来破吾家者,必此子也!」後民変事起,尚書已老,青芝公不諳世故,願自処分,愚民望処,一集千人,遂致破産。人始服尚書先見。
書き下し
厳震、山南に鎮するに、一人有りて銭三百千を乞い、以て過活せんとす。震、子の公弼らを召してこれを問う。公弼曰く、「此は風を患うるのみ。大人、必ずしもこれに応ぜず」と。震怒りて曰く、「爾必ず吾が門を墜さん。只だ吾に力めて善事を行うを勧むべきに、奈何ぞ吾に金帛を吝惜するを勧むるや。且つ此の人、弁ぜざらんに、吾に三百千を乞う、的に凡ならざるなり」と。左右に命じて数に準じてこれに与えしむ。是に於て三川の士、心を帰すること恐後し、亦た造次にして過求する者無し。〔馮述評〕天下の窮まり無き不肖の事は、皆な銭を捨て得ざるより起こる。天下の窮まり無き好事は、皆な銭を捨て得て做さる。古より銭を捨て得ざるの好人無きなり。呉の魯粛、唐の于頔、宋の范仲淹は、都て肯えて大いに手を開く者なり。西呉の董尚書潯陽公份は、家富みて交接に勤む。凡そ衣冠の過賓には、延礼して厚く贈らざる無し。その孫、礼部の青芝公嗣成は、詩字に工みにして、往往にして手書の扇軸及び詩稿を以て人に贈る。尚書これを聞きて曰く、「我が家の勢を以てして、日に金幣を以て歓を為すと雖も、猶お人望を塞がざるを恐る。奈何ぞ清客の行事に效うや。且つ縉紳の家は、自ずから局面有り。豈に復た詩字を以て人の憐れみを得んや。将来吾が家を破る者は、必ず此の子ならん」と。後、民変の事起こるに、尚書已に老い、青芝公は世故に諳んぜず、自ら処分せんことを願い、愚民の望む処、一たび集まれば千人、遂に破産を致す。人始めて尚書の先見に服す。
現代語訳
厳震が山南に鎮守していたとき、ある人が三百千の銭を求め、それで暮らしを立てたいと願い出ました。厳震は息子の公弼たちを呼んで意見を聞きました。公弼は言いました。「これは気がふれているだけです。父上が応じる必要はありません。」厳震は怒って言いました。「お前はきっとわが家を傾けるぞ。私に善い行いに励むよう勧めるべきなのに、どうして金品を惜しめと勧めるのか。しかもこの人は、できもしないのに私に三百千を求めてきた。これは確かに並の人物ではない。」そして左右の者に命じて、求められた額どおりに与えさせました。これを聞いて三川の士人たちは我先にと心を寄せ、軽々しく過分な要求をする者も出ませんでした。〔馮夢龍の評〕世にある数限りない不心得な行いは、みな銭を惜しむところから起こり、数限りない善い行いは、みな銭を惜しまずに使うところから生まれます。昔から銭を惜しんで善人であった者はいません。呉の魯粛、唐の于頔、宋の范仲淹は、みな思い切って手を開いた人でした。西呉の董尚書、潯陽公の份は、家が富み、人づきあいにも熱心でした。衣冠の客が通りかかれば、必ず礼を尽くして手厚く贈り物をしました。その孫の礼部の青芝公嗣成は、詩と書が巧みで、よく自筆の扇や掛け軸、詩稿を人に贈りました。尚書はこれを聞いて言いました。「わが家の勢いなら、毎日金品を贈って喜ばせても、人々の期待に応えきれないのではと心配なのに、どうして取り巻きの文人のまねをするのか。それに縉紳の家には、おのずから体面というものがある。詩や書で人の憐れみを得るものではない。将来わが家を潰すのは、きっとこの子だ。」のちに民衆の騒動が起こったとき、尚書はすでに老い、青芝公は世の中のことに疎いのに自ら采配をとろうとし、愚かな民衆が望むところへ一度集まれば千人にもなり、ついに家は破産しました。人々はそこで尚書の先見に感服しました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 呉王濞列伝然れども其の国に居るや、銅塩の故を以て、百姓に賦無し。卒の践更するには、輒ち平賈を与ふ。歳時に茂材を存問し、閭里に賞賜す。佗の郡国の吏来りて亡人を捕へんと欲する者あれば、訟ひて共に禁じて予へず。此の如き者四十余年、故を以て能く其の衆を使ふ。
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三略・上略夫れ主将の法は、務めて英雄の心を攬り、功有る者に賞禄し、志を衆に通ずるにあり。故に衆と好を同じくすれば、成らざるは靡く、衆と悪を同じくすれば、傾かざるは靡し。国を治め家を安んずるは、人を得ればなり。国を亡ぼし家を破るは、人を失えばなり。含気の類、咸な其の志を得んことを願う。
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史記 留侯世家上曰く、「雍歯は我と故あり、数々嘗て我を窘辱す。我之を殺さんと欲するも、其の功多きが為に、故に忍びず」と。留侯曰く、「今急ぎ先づ雍歯を封じて以て羣臣に示せ、羣臣雍歯の封ぜらるるを見ば、則ち人人自ら堅からん」と。是に於て上乃ち酒を置き、雍歯を封じて什方侯と為し、而して急ぎ丞相・御史を趣して功を定め封を行はしむ。羣臣酒を罷め、皆喜びて曰く、「雍歯すら尚ほ侯と為る、我が属患ひ無し」と。劉敬高帝に説きて曰く、「関中に都せよ」と。上之を疑ふ。左右の大臣皆山東の人にして、多く上に雒陽に都せんことを勧む、「雒陽は東に成皋有り、西に殽黽有り、河を倍にし、伊雒に向かふ、其の固めも亦た恃むに足る」と。留侯曰く、「雒陽は此の固め有りと雖も、其の中小にして、数百里に過ぎず、田地薄く、四面より敵を受く、此れ武を用ふるの国に非ざるなり。夫れ関中は殽函を左にし、隴蜀を右にし、沃野千里、南に巴蜀の饒有り、北に胡苑の利有り、三面を阻みて守り、独り一面を以て東のかた諸侯を制す。諸侯安定すれば、河渭漕輓して天下より、西のかた京師に給す。諸侯変有らば、流れに順ひて下り、以て委輸するに足る。此れ所謂金城千里、天府の国なり、劉敬の説是なり」と。是に於て高帝即日駕し、西のかた関中に都す。留侯従ひて関に入る。留侯性多病にして、即ち道引して穀を食はず、門を杜ぢて出でざること歳余。上太子を廃し、戚夫人の子趙王如意を立てんと欲す。大臣多く諫争するも、未だ堅決を得る者あらざるなり。呂后恐れ、為す所を知らず。人或ひと呂后に謂ひて曰く、「留侯は善く計筴を画し、上之を信用す」と。呂后乃ち建成侯呂沢をして留侯を劫かしめて、曰く、「君常に上の謀臣為り、今上太子を易へんと欲す、君安んぞ枕を高くして臥するを得んや」と。留侯曰く、「始め上数々困急の中に在り、幸ひにして臣の筴を用ふ。今天下安定し、愛欲を以て太子を易へんとす、骨肉の間は、臣等百余人と雖も何ぞ益せん」と。
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史記 黥布列伝楚、項声・竜且をして淮南を攻めしめ、項王留まりて下邑を攻む。数月、竜且淮南を撃ち、布の軍を破る。布兵を引きて漢に走らんと欲するも、楚王の之を殺さんことを恐る。故に間行して何と倶に漢に帰す。淮南王至る。上方に床に踞して洗ひ、布を召して入り見えしむ。布大いに怒り、来たりしを悔い、自殺せんと欲す。出でて舎に就く。帳御飲食従官漢王の居の如し。布又大いに喜び望みに過ぐ。是に於て乃ち人をして九江に入らしむ。楚已に項伯をして九江の兵を収めしめ、尽く布の妻子を殺す。布の使者頗る故人幸臣を得、衆数千人を将ゐて漢に帰す。漢益々布に兵を分かちて与に倶に北し、兵を収めて成皋に至る。四年七月、布を立てて淮南王と為し、与に項籍を撃つ。漢の五年、布人をして九江に入らしめ、数県を得。六年、布劉賈と九江に入り、大司馬周殷を誘ふ。周殷楚に反き、遂に九江の兵を挙げて漢と楚を撃ち、之を垓下に破る。項籍死し、天下定まる。上置酒す。上隨何の功を折き、何を謂ひて腐儒と為し、天下を為むるに安んぞ腐儒を用ひんと。隨何跪きて曰く、「夫れ陛下兵を引きて彭城を攻むるに、楚王未だ斉を去らず。陛下歩卒五万人、騎五千を発して、能く以て淮南を取らんか」と。上曰く、「能はず」と。隨何曰く、「陛下何と二十人とをして淮南に使ひせしめ、至りて陛下の意の如くならしむ。是れ何の功は歩卒五万人騎五千より賢れるなり。然り而して陛下何を謂ひて腐儒と為し、天下を為むるに安んぞ腐儒を用ひんとするは、何ぞや」と。上曰く、「吾方に子の功を図らんとす」と。乃ち隨何を以て護軍中尉と為す。布遂に符を剖きて淮南王と為り、六に都す。九江・廬江・衡山・豫章の郡皆布に属す。七年、陳に朝す。八年、雒陽に朝す。九年、長安に朝す。
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史記 韓信盧綰列伝趙・代を劫略す。上聞き、乃ち趙・代の吏人の豨の為に詿誤劫略せらるる者を赦し、皆之を赦す。上自ら往き、邯鄲に至り、喜びて曰く、「豨南のかた漳水に拠らず、北のかた邯鄲を守らず。其の能く為す無きを知るなり」と。趙の相奏して常山の守・尉を斬らんとして曰く、「常山の二十五城、豨反して、其の二十城を亡ふ」と。上問ひて曰く、「守・尉反せしか」と。対へて曰く、「反せず」と。上曰く、「是れ力足らざるなり」と。之を赦し、復た以て常山の守・尉と為す。上周昌に問ひて曰く、「趙に亦壮士の将たらしむべき者有りや」と。対へて曰く、「四人有り」と。四人謁す。上謾罵して曰く、「豎子能く将たらんや」と。四人慚ぢて伏す。上之を封ずること各千戸、以て将と為す。左右諫めて曰く、「蜀・漢に入り、楚を伐つに従ひしも、功未だ遍く行はれず。今此れ何の功ありて封ずるや」と。上曰く、「若の知る所に非ず。陳豨反し、邯鄲以北は皆豨の有なり。吾羽檄を以て天下の兵を徴すも、未だ至る者有らず。今唯だ独り邯鄲中の兵のみ。吾胡ぞ四千戸を愛しみて四人を封じ、以て趙の子弟を慰めざらんや」と。皆曰く、「善し」と。是に於て上曰く、「陳豨の将は誰ぞ」と。曰く、「王黄・曼丘臣、皆故の賈人なり」と。上曰く、「吾之を知れり」と。乃ち各千金を以て黄・臣等を購ふ。十一年の冬、漢兵撃ちて陳豨の将侯敞・王黄を曲逆の下に斬り、豨の将張春を聊城に破り、首を斬ること万余。太尉勃入りて太原・代の地を定む。十二月、上自ら東垣を撃つ。東垣下らず、卒上を罵る。東垣降るや、卒の罵りし者は之を斬り、罵らざる者は之を黥す。更めて東垣を命じて真定と為す。王黄・曼丘臣は、其の麾下購賞に之を受け、皆生け得たり。以ての故に陳豨の軍遂に敗る。上還りて洛陽に至る。上曰く、「代は常山の北に居り、趙は乃ち山南より之を有つ、遠し」と。乃ち子恒を立てて代王と為し、中都に都せしめ、代・鴈門皆代に属せしむ。高祖の十二年の冬、樊噲の軍卒追ひて豨を霊丘に斬る。
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呂氏春秋・用民⑥夙沙の民は、自ら其の君を攻めて、神農に歸す。密須の民は、自ら其の主を縛りて、文王に與う。湯・武は徒に能く其の民を用うるのみに非ざるなり、又能く己の民に非ざるものを用う。能く己の民に非ざるものを用うれば、國小なりと雖も、卒少しと雖も、功名は猶ほ立つ可し。古昔、布衣由り一世を定めし者多し。皆能く其の有に非ざるものを用いたればなり。其の有に非ざるの心を用うる、之が本を察せざる可からず。三代の道に二無し。信を以て管と為す。
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