智囊 / 見大・狄青・邵雍
狄青起行伍十餘年,既貴顯,面涅猶存,曰:「留以勸軍中!」〔馮述評〕既不去面涅,便知不肯遙附梁公。熙寧中,新法方行,州縣騷然,邵康節閒居林下,門生故舊仕宦者皆欲投劾而歸,以書問康節。答曰:「正賢者所當盡力之時。新法固嚴,能寬一分,則民受一分之賜矣。投劾而去何益?」〔馮述評〕李燔〔馮注:朱晦庵弟子〕常言:「人不必待仕宦有職事才為功業,但隨力到處,有以及物,即功業也。」蓮池大師勸人作善事,或辭以無力,大師指凳曰:「假如此凳,欹斜礙路,吾為整之,亦一善也。」如此存心,便覺臨難投劾者是寶山空回。鮮于侁為利州路轉運副使,部民不請青苗錢,王安石遣吏詰之,曰:「青苗之法,願取則與,民自不願,豈能強之?」東坡稱侁「上不害法,中不廢親,下不傷民」,以為「三難」,仕途當以為法。
新字:狄青起行伍十余年,既貴顕,面涅猶存,曰:「留以勧軍中!」〔馮述評〕既不去面涅,便知不肯遥附梁公。熙寧中,新法方行,州県騷然,邵康節閒居林下,門生故旧仕宦者皆欲投劾而帰,以書問康節。答曰:「正賢者所当尽力之時。新法固厳,能寛一分,則民受一分之賜矣。投劾而去何益?」〔馮述評〕李燔〔馮注:朱晦庵弟子〕常言:「人不必待仕宦有職事才為功業,但随力到処,有以及物,即功業也。」蓮池大師勧人作善事,或辞以無力,大師指凳曰:「仮如此凳,欹斜礙路,吾為整之,亦一善也。」如此存心,便覚臨難投劾者是宝山空回。鮮于侁為利州路転運副使,部民不請青苗銭,王安石遣吏詰之,曰:「青苗之法,願取則与,民自不願,豈能強之?」東坡称侁「上不害法,中不廃親,下不傷民」,以為「三難」,仕途当以為法。
書き下し
狄青は行伍より起こり十余年、既に貴顕なるも、面の涅は猶お存す。曰く、留めて以て軍中を勧めんと、と。〔馮述評〕既に面涅を去らざれば、便ち遙かに梁公に附せざるを知る。熙寧の中、新法方に行われ、州県は騒然たり。邵康節は閒居して林下にあり、門生故旧の仕宦する者は皆な劾を投じて帰らんと欲し、書を以て康節に問う。答えて曰く、正に賢者の当に力を尽くすべきの時なり。新法は固より厳なれども、能く一分を寛くすれば、則ち民は一分の賜を受く。劾を投じて去るも何の益あらん、と。〔馮述評〕李燔〔馮注、朱晦庵の弟子〕は常に言う、人は必ずしも仕宦して職事有るを待ちて才めて功業と為さず。但だ力に随いて到る処に、以て物に及ぶ有らば、即ち功業なり、と。蓮池大師は人に善事を作すを勧め、辞するに力無きを以てする者あれば、大師は凳を指して曰く、仮に此の凳の如き、欹斜して路を礙げば、吾れ之を整うるも、亦た一善なり、と。此の如く心を存せば、便ち臨難に劾を投ずる者は、宝山に空しく回るなるを覚ゆ。鮮于侁は利州路転運副使と為る。部民は青苗銭を請わず。王安石は吏を遣わして之を詰る。曰く、青苗の法は、願わば則ち取る。民は自ら願わず、豈に能く之を強いんや、と。東坡は侁を称して、上は法を害さず、中は親を廃さず、下は民を傷つけずとし、以て三難と為し、仕途は当に以て法と為すべしと言う。
現代語訳
狄青は兵卒から身を起こして十余年、すでに高位に上っていたが、顔の入れ墨はなお残っていた。彼は言った。残して軍中の者を励ましたい、と。〔馮の評〕すでに顔の入れ墨を消さないのだから、遠く梁公(狄仁傑)に付会しようとしないことが分かる。熙寧年間、新法が実施され、州県は騒然としていた。邵康節は林下で隠居していたが、門生や旧友で仕官している者はみな辞職して帰ろうと考え、書簡で康節に尋ねた。答えて言った。まさに賢者が力を尽くすべき時である。新法はもとより厳しいが、少しでも緩めることができれば、民はその分の恵みを受ける。辞表を出して去っても何の益があろうか、と。〔馮の評〕李燔〔馮の注、朱熹の弟子〕はいつも言っていた。人は必ずしも官職について職務を持ってから功業をなすとは限らない。力に応じて至る所で人や物に及ぶことがあれば、それが功業である、と。蓮池大師は人に善事を勧め、力がないと辞退する者がいれば、大師は腰掛けを指して言った。仮にこの腰掛けが傾いて道を妨げているなら、私がそれを整えるのも一つの善だ、と。このような心がけがあれば、難に臨んで辞職する者は、宝の山に入って手ぶらで帰るのだと感じられる。鮮于侁は利州路転運副使となった。管内の民は青苗銭の貸付を請わなかった。王安石は役人を遣わして問い詰めた。鮮于侁は言った。青苗の法は、願う者が取るものである。民が自ら願わないのに、どうして強いることができようか、と。蘇東坡は鮮于侁を称えて、上は法を害さず、中は親を廃さず、下は民を傷つけないとし、これを三つの難事とし、仕官の道の手本とすべきだと言った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『韓非子』初見秦第一然り而して兵甲頓れ、士民病み、蓄積索き、田疇荒れ、囷倉虚しく、四隣の諸侯服せず、霸王の名成らず。此れ異なる故無し、其の謀臣皆な其の忠を尽くさざればなり。
-
『智囊』億中・邵雍王安石、相を罷め、呂恵卿、政事に参知す。富鄭公、康節に見えて憂色有り。康節曰く、「豈に恵卿の凶暴なること安石に過ぐるを以てか」と。曰く、「然り」と。康節曰く、「憂うること勿れ。安石、恵卿は本と勢利を以て相合す。今、勢利相敵すれば、将に自ら仇と為らんとす。他人を害するに暇あらざるなり」と。未だ幾ばくならずして、恵卿、果たして安石に叛く。〔按〕荊公、新法を行い、新進を任用す。温公、貽るに書を以てして曰く、「忠信の士は、公の路に当たる時に於いて齟齬して憎むべしと雖も、後に必ず其の力を得ん。諂諛の人は、今に於いて誠に順適の快有るも、一旦勢を失わば、必ず公を売りて以て自ら售らんとする者有らん」と。蓋し呂恵卿を指すなり。熙寧の初め、王宣徽の子、名は正甫、字は茂直、西京糧料院を監す。一日、邵康節を約し、呉処厚、王平甫と飯を食わんとするに、康節、辞するに疾を以てす。明日、茂直、来たりて康節に会を辞せし故を問う。康節曰く、「処厚は議論を好み、毎に執政の新法を譏刺す。平甫は介甫の弟なり。甚しくは其の兄を主とせずと雖も、人の面に之を罵るが若きは、則ち亦た堪えざらん。此れ某の辞せし所以なり」と。茂直、歎じて曰く、「先生の事を料ること審らかなること此くの如し。昨、処厚、席間に介甫を毀り、平甫、色を作し、其の事を府に列せんと欲す。某、之を解くこと甚だ苦しみ、乃ち已む」と。嗚呼、康節は道徳を以て一代に尊ばるるに、平居の出処、一飯食の間にも、其の慎むこと此くの如し。
-
『智囊』見大・劉溫叟・衛青・程信狄青、枢密使たり、自ら功有るを恃み、頗る驕蹇にして、士卒を怙惜し、衣糧を得る毎に、皆な曰く、「此れ狄家の爺爺の賜う所なり」と。朝廷これを患う。時に文潞公、国に当たり、建言して両鎮の節使を以てこれを出さんとす。青は自ら功無くして鎮節を受け、罪無くして外藩に出ると陳ぶ。仁宗も亦た以て然りと為し、潞公に此の語を述べ、且つ狄青は忠臣なりと言う。潞公曰く、「太祖は豈に周の世宗の忠臣に非ずや。但だ軍心を得たれば、陳橋の変有る所以なり」と。上は黙然たり。青は猶お未だ知らず、中書に到りて自ら弁ず。潞公は直視して曰く、「他無し。朝廷、爾を疑うなり」と。青は驚怖し、却行すること数歩。青、鎮に在りては、月ごとに両たび中使を遣わして撫問せしむ。青は中使の来たるを聞けば、輒ち驚疑すること終日、半年ならずして、病作りて卒す。皆な潞公の謀なり。休寧の程公信、南司馬と為りて川貴に征するに、詔して便宜の権を公に付す。公は兵を発してより凱旋するに至るまで、一人にも爵せず、一人をも殺さず。同事の者以て言を為す。公曰く、「刑賞は、人主の大柄なり。閫外の事、集まらざるを懼れて、これを人臣に仮す。幸いにして事集まれば、又た窃かにこれを弄ぶ。豈に人臣の誼ならんや」と。論者は以て古の名臣の言なりと為す。
-
『智囊』制勝・狄青〔按〕是の役、諫官韓絳言う、「青は武人にして、専任するに足らず。請う、侍従の文臣を以て之が副と為せ」と。時に龐籍独り相と為り、対えて曰く、「属者、王師屡々敗るるは、皆大将の軽く、偏裨の自ら用いて、制する能わざるに由る。今、青は行伍に起こる。若し侍従の臣を以て之が副とせば、号令復た行われざらん。青、昔鄜延に在りて、臣の麾下に居り、沈勇にして智略有り。若し専ら智高の事を以て之に委ねば、必ず能く賊を辦ぜん」と。是に於いて詔す、嶺南の用兵は、皆節制を受けよと。青、行くに臨みて上言す、「古の俘馘奏凱は、耳鼻を割くこと則ち之有るも、首を獲るを以てするを聞かず。秦・漢以来、一首を獲れば、爵一級を賜い、因りて之を『首級』と謂う。故に軍士首級を争い、以て相殺すに致る。又其の間、多く首級を以て貨と為し、無功不戦の人に售る。願わくは一切之を罷めよ」と。二条皆名言にして、将を命じて成功せしむるの法と為すべし。又青、行く時、貴近に因りて従行を求むる者有り。青、之に謂いて曰く、「君、従行せんと欲するは甚だ善し。然れども智高は小寇なるに、青を遣わして行かしむるに至る。以て事の急なるを知るべし。青に従う士は、賊を撃ちて功有らば、当に厚賞有るべし。然らざれば、軍中の法は重く、青は私すること能わず。君、自ら之を思え。行かんと願わば、則ち即ち奏して君を取らん」と。是に於いて復た敢えて従行を求むる者無し。即ち此の一節にて、青の能く法を持し、必ず能く功を成すを知る。又青、既に邕州に入り、斂積せる屍の内に金龍の衣を衣る者有り、又金龍の楯を其の旁に得たり。或いは言う、「智高已に死せり。当に亟ぎ奏すべし」と。青曰く、「安くんぞ詐に非ざるを知らんや。寧ろ智高を失うとも、敢えて朝廷を欺かんや」と。二事を合観するに、唯だ人をして功を冒さしめざるのみならず、己も亦敢えて知るべからざるの功を冒さず。
-
『智囊』謬數・狄青・王安石陝西の豪士劉易、多く辺に游び、兵を談ずるを喜ぶ。韓魏公、厚く之を遇す。狄青、宴設の每に、易、苦馬菜を食らうを喜ぶも、得ざれば、即ち叫怒して無礼なり。辺地には之無く、狄、為に内郡に求め、後、燕集する每に、終日唯だ此の菜を以て之に啖わしむ。易、堪うる能わず、方に常饌を設く。王舒王の越国呉夫人、性は潔を好み疾を成す。王は真率に任せ、每に相い合わず。江寧より骸を乞いて私第に帰るに、官藤牀有り、呉、仮りて用い未だ還さず。郡吏、来たりて索む。左右、敢えて言う莫し。王、一旦、跣にして牀に登り、偃仰すること良久し。呉、望見して、即ち命じて送り還さしむ。王安石、江寧より官を辞して後、故居の旧宅に回到す。話すに、官の藤牀有り。呉夫人、借り去りて後、就ち一直に未だ帰還せず。郡吏、多次に前来して索討するも、都て空手にて回る。有る一日、王安石、就ち鞋を穿きて牀に跳び上がり、然る後に其の上に躺臥す。呉夫人見て、立ちどころに人に命じて牀を将て送還せしむ。
-
『宋名臣言行録』前集巻八・狄青公、韓・范の知る所と爲る。後、樞宻に位す。或るひと告ぐるに、當に狄梁公を推して祖と爲すべしと以てす。公愧謝して曰く、青は田家より出で、少くして兵と爲る。安んぞ敢えて狄梁公を祖とせんやと。(筆談に云う、青、樞宻使と爲る。狄梁公の後、梁公の畫像及び告身十餘通を持して青に詣りて之を獻ず。以謂えらく青の逺祖なりと。之を謝して曰く、一時の遭際、安んぞ敢えて自ら梁公に附かんやと。厚く贈りて之を還す。之を郭崇韜の子儀の墓に哭するに比ぶれば、青の得る所多しと。)或るひと鬢間の字を去らんことを勸む。則ち曰く、青、貴しと雖も本を忘れざるなりと。(或るひと曰く、仁宗、青に喻して其の湼を去らしむ。青、其の面を指して云う、臣の此に至る所以は、是を以てのみ。願わくは留めて軍中に示さん。敢えて詔を奉ぜずと。)韓公の家に至る毎に、必ず廟庭の下に拜す。入りて夫人を拜すること甚だ恭し。郎君の禮を以て其の子弟を待つ。其の人に異なること此くの如し。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る