智囊 / 見大・劉溫叟・衛青・程信
狄青為樞密使,自恃有功,頗驕蹇,怙惜士卒,每得衣糧,皆曰:「此狄家爺爺所賜。」朝廷患之。時文潞公當國,建言以兩鎮節使出之,青自陳無功而受鎮節,無罪而出外藩,仁宗亦以為然,向潞公述此語,且言狄青忠臣,潞公曰:「太祖豈非周世宗忠臣?但得軍心,所以有陳橋之變。」上默然,青猶未知,到中書自辨,潞公直視之,曰:「無他,朝廷疑爾。」青驚怖,卻行數步。青在鎮,每月兩遣中使撫問,青聞中使來,輒驚疑終日,不半年,病作而卒。皆潞公之謀也。休寧程公信為南司馬征川貴時,詔以便宜之權付公。公自發兵至凱旋,不爵一人,不殺一人。同事者以為言,公曰:「刑賞,人主之大柄。懼閫外事不集,而假之人臣;幸而事集,又竊弄之,豈人臣之誼耶?」論者以為古名臣之言。
新字:狄青為枢密使,自恃有功,頗驕蹇,怙惜士卒,毎得衣糧,皆曰:「此狄家爺爺所賜。」朝廷患之。時文潞公当国,建言以両鎮節使出之,青自陳無功而受鎮節,無罪而出外藩,仁宗亦以為然,向潞公述此語,且言狄青忠臣,潞公曰:「太祖豈非周世宗忠臣?但得軍心,所以有陳橋之変。」上黙然,青猶未知,到中書自弁,潞公直視之,曰:「無他,朝廷疑爾。」青驚怖,却行数歩。青在鎮,毎月両遣中使撫問,青聞中使来,輒驚疑終日,不半年,病作而卒。皆潞公之謀也。休寧程公信為南司馬征川貴時,詔以便宜之権付公。公自発兵至凱旋,不爵一人,不殺一人。同事者以為言,公曰:「刑賞,人主之大柄。懼閫外事不集,而仮之人臣;幸而事集,又窃弄之,豈人臣之誼耶?」論者以為古名臣之言。
書き下し
狄青、枢密使たり、自ら功有るを恃み、頗る驕蹇にして、士卒を怙惜し、衣糧を得る毎に、皆な曰く、「此れ狄家の爺爺の賜う所なり」と。朝廷これを患う。時に文潞公、国に当たり、建言して両鎮の節使を以てこれを出さんとす。青は自ら功無くして鎮節を受け、罪無くして外藩に出ると陳ぶ。仁宗も亦た以て然りと為し、潞公に此の語を述べ、且つ狄青は忠臣なりと言う。潞公曰く、「太祖は豈に周の世宗の忠臣に非ずや。但だ軍心を得たれば、陳橋の変有る所以なり」と。上は黙然たり。青は猶お未だ知らず、中書に到りて自ら弁ず。潞公は直視して曰く、「他無し。朝廷、爾を疑うなり」と。青は驚怖し、却行すること数歩。青、鎮に在りては、月ごとに両たび中使を遣わして撫問せしむ。青は中使の来たるを聞けば、輒ち驚疑すること終日、半年ならずして、病作りて卒す。皆な潞公の謀なり。休寧の程公信、南司馬と為りて川貴に征するに、詔して便宜の権を公に付す。公は兵を発してより凱旋するに至るまで、一人にも爵せず、一人をも殺さず。同事の者以て言を為す。公曰く、「刑賞は、人主の大柄なり。閫外の事、集まらざるを懼れて、これを人臣に仮す。幸いにして事集まれば、又た窃かにこれを弄ぶ。豈に人臣の誼ならんや」と。論者は以て古の名臣の言なりと為す。
現代語訳
狄青は枢密使になると、自分の功績を頼みにして、ずいぶん驕りたかぶり、士卒をかばって離さず、衣服や糧食を受け取るたびに、みな「これは狄家のおやじ殿がくださったものだ」と言いました。朝廷はこれを心配しました。当時、文彦博(潞公)が国政にあたり、狄青を二つの鎮の節度使として外に出すよう上言しました。狄青は、自分は功績がないのに節度使の鎮を受け、罪もないのに外藩に出されると申し立てました。仁宗もそのとおりだと思い、潞公にそのことを述べ、狄青は忠臣だと言いました。潞公は言いました。「太祖は周の世宗の忠臣ではなかったでしょうか。しかし軍の人心を得ていたので、陳橋の変が起こったのです。」皇帝は黙りました。狄青はまだ事情を知らず、中書省に行って自ら弁明しました。潞公はじっと見つめて言いました。「ほかでもない。朝廷があなたを疑っているのだ。」狄青は驚き恐れ、後ずさりして数歩下がりました。狄青が任地にいるあいだ、毎月二回、宦官を遣わしてねぎらい見舞わせました。狄青は宦官が来たと聞くと、そのたびに一日中驚き疑い、半年もたたないうちに病気になって死にました。すべて潞公の謀によるものでした。休寧の程信公は、南の司馬として四川・貴州を討ったとき、詔によって臨機応変の権限を与えられていました。公は兵を出してから凱旋するまで、ひとりにも爵位を与えず、ひとりも殺しませんでした。同僚が不審に思って言うと、公は言いました。「刑と賞は、君主の大きな権柄である。国境の外の事が成らないことを心配して、臣下に貸し与えたのだ。幸いに事が成ったからといって、こっそりそれを弄ぶのは、臣下の道にかなうだろうか。」論者は、古の名臣の言葉だと評しました。
解説
この章句が説くこと
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