智囊 / 謬數・狄青・王安石
陝西豪士劉易多游邊,喜談兵。韓魏公厚遇之。狄青每宴設,易喜食苦馬菜,不得,即叫怒無禮。邊地無之,狄為求於內郡,後每燕集,終日唯以此菜啖之。易不能堪,方設常饌。王舒王越國吳夫人性好潔成疾,王任真率,每不相合。自江寧乞骸歸私第,有官藤牀,吳假用未還。,郡吏來索,左右莫敢言。王一旦跣而登牀,偃仰良久。吳望見,即命送還。王安石自江寧辭官後,回到故居舊宅。話說有張官藤牀,吳夫人借去後就一直未歸還,郡吏多次前來索討,都空手而回。有一天,王安石就穿著鞋子跳上牀,然後躺臥其上,吳夫人見了,立即命人將牀送還。
新字:陝西豪士劉易多游辺,喜談兵。韓魏公厚遇之。狄青毎宴設,易喜食苦馬菜,不得,即叫怒無礼。辺地無之,狄為求於内郡,後毎燕集,終日唯以此菜啖之。易不能堪,方設常饌。王舒王越国呉夫人性好潔成疾,王任真率,毎不相合。自江寧乞骸帰私第,有官藤牀,呉仮用未還。,郡吏来索,左右莫敢言。王一旦跣而登牀,偃仰良久。呉望見,即命送還。王安石自江寧辞官後,回到故居旧宅。話説有張官藤牀,呉夫人借去後就一直未帰還,郡吏多次前来索討,都空手而回。有一天,王安石就穿著鞋子跳上牀,然後躺臥其上,呉夫人見了,立即命人将牀送還。
書き下し
陝西の豪士劉易、多く辺に游び、兵を談ずるを喜ぶ。韓魏公、厚く之を遇す。狄青、宴設の每に、易、苦馬菜を食らうを喜ぶも、得ざれば、即ち叫怒して無礼なり。辺地には之無く、狄、為に内郡に求め、後、燕集する每に、終日唯だ此の菜を以て之に啖わしむ。易、堪うる能わず、方に常饌を設く。王舒王の越国呉夫人、性は潔を好み疾を成す。王は真率に任せ、每に相い合わず。江寧より骸を乞いて私第に帰るに、官藤牀有り、呉、仮りて用い未だ還さず。郡吏、来たりて索む。左右、敢えて言う莫し。王、一旦、跣にして牀に登り、偃仰すること良久し。呉、望見して、即ち命じて送り還さしむ。王安石、江寧より官を辞して後、故居の旧宅に回到す。話すに、官の藤牀有り。呉夫人、借り去りて後、就ち一直に未だ帰還せず。郡吏、多次に前来して索討するも、都て空手にて回る。有る一日、王安石、就ち鞋を穿きて牀に跳び上がり、然る後に其の上に躺臥す。呉夫人見て、立ちどころに人に命じて牀を将て送還せしむ。
現代語訳
陝西の豪傑、劉易は、よく辺境に遊び、兵法を談ずることを好んだ。韓魏公(韓琦)は彼を厚く遇した。狄青が宴会を設けるたびに、劉易は苦馬菜を好んで食べたが、手に入らないと、叫び怒って無礼な振る舞いをした。辺境の地にはこの菜がないので、狄青は内地の郡に求めて取り寄せた。以後、宴会のたびに、一日中この菜だけを食べさせた。劉易は耐えられなくなり、ようやく普通の料理を出させた。王安石(舒王)の夫人、越国呉夫人は、生まれつき潔癖で、それが病になるほどだった。王安石は飾り気がなく、いつも考えが合わなかった。江寧から辞職して私邸に帰ったとき、官有の籐の寝台があり、呉夫人は借りて使ったまま返していなかった。郡の役人が返却を求めに来たが、側近は誰も言い出せなかった。ある日、王安石は靴をはかず素足のまま寝台に上り、長いこと寝転んだ。呉夫人はこれを見ると、すぐに命じて寝台を送り返させた。王安石が江寧から官を辞して後、故郷の旧宅に帰った。話によると、官有の籐の寝台があった。呉夫人が借りて行って以来、ずっと返していなかった。郡の役人が何度も来て返却を求めたが、いつも手ぶらで帰った。ある日、王安石は靴をはいたまま寝台に跳び上がり、そのまま上に寝転んだ。呉夫人はこれを見て、すぐに人に命じて寝台を送り返させた。
解説
この章句が説くこと
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『宋名臣言行録』前集巻八・狄青陜西の豪士劉易、多く邊に遊び、喜んで兵を談ず。寳元・康定の間、韓公、五路を宣撫し、之を薦む。處士の號を賜う。易、善く詩を作る。韓公、爲に石に書す。或いは其の意に可ならざれば則ち怒りを發して洗い去る。魏公欣然として再び書して憚らず。公、燕設する毎に、易、苦馬菜を食するを喜ぶ。之を得ざれば即ち呌怒して禮無し。邊城に之れ無し。公、爲に内郡に求む。後、燕集する毎に、終日惟だ此の菜を以て之に㗖わしむ。易堪える能わず。方に常饌を設く。時に公の善く易を制すと稱す。
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『智囊』億中・邵雍王安石、相を罷め、呂恵卿、政事に参知す。富鄭公、康節に見えて憂色有り。康節曰く、「豈に恵卿の凶暴なること安石に過ぐるを以てか」と。曰く、「然り」と。康節曰く、「憂うること勿れ。安石、恵卿は本と勢利を以て相合す。今、勢利相敵すれば、将に自ら仇と為らんとす。他人を害するに暇あらざるなり」と。未だ幾ばくならずして、恵卿、果たして安石に叛く。〔按〕荊公、新法を行い、新進を任用す。温公、貽るに書を以てして曰く、「忠信の士は、公の路に当たる時に於いて齟齬して憎むべしと雖も、後に必ず其の力を得ん。諂諛の人は、今に於いて誠に順適の快有るも、一旦勢を失わば、必ず公を売りて以て自ら售らんとする者有らん」と。蓋し呂恵卿を指すなり。熙寧の初め、王宣徽の子、名は正甫、字は茂直、西京糧料院を監す。一日、邵康節を約し、呉処厚、王平甫と飯を食わんとするに、康節、辞するに疾を以てす。明日、茂直、来たりて康節に会を辞せし故を問う。康節曰く、「処厚は議論を好み、毎に執政の新法を譏刺す。平甫は介甫の弟なり。甚しくは其の兄を主とせずと雖も、人の面に之を罵るが若きは、則ち亦た堪えざらん。此れ某の辞せし所以なり」と。茂直、歎じて曰く、「先生の事を料ること審らかなること此くの如し。昨、処厚、席間に介甫を毀り、平甫、色を作し、其の事を府に列せんと欲す。某、之を解くこと甚だ苦しみ、乃ち已む」と。嗚呼、康節は道徳を以て一代に尊ばるるに、平居の出処、一飯食の間にも、其の慎むこと此くの如し。
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『宋名臣言行録』前集巻八・狄青青、真定の副帥と作る。嘗て魏公に宴す。惟だ劉易先生のみ與る。易の性は素より踈訐なり。時に優人、儒を以て戲を爲す。易勃然として、黥卒、敢えて此くの如くすと謂う。公を詬詈して口を絶たず。樽俎を擲ちて以て起つに至る。公の氣、殊に自若として、少しも動ぜず。笑語益々温なり。次日、公首として劉易を造りて謝す。魏公、是の時に於て巳に其の量有るを知る。
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『忍経』罵殊自若狄武襄公、真定の副帥爲り。一日、劉威敏を宴す。劉易なる者有りて亦た坐に與る。易は素より疏悍なり。優人の儒を以て戲を爲すを見て、乃ち勃然として曰く、「黥卒乃ち敢て此を職とするか」と。武襄を詬罵して口を絕たず、樽俎を擲ちて起つ。武襄殊に自若として少しも動かず、笑語愈々溫かなり。易歸りて、方に自ら悔ゆ。則ち武襄已に門に踵りて謝を求む。
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『智囊』見大・狄青・邵雍狄青は行伍より起こり十余年、既に貴顕なるも、面の涅は猶お存す。曰く、留めて以て軍中を勧めんと、と。〔馮述評〕既に面涅を去らざれば、便ち遙かに梁公に附せざるを知る。熙寧の中、新法方に行われ、州県は騒然たり。邵康節は閒居して林下にあり、門生故旧の仕宦する者は皆な劾を投じて帰らんと欲し、書を以て康節に問う。答えて曰く、正に賢者の当に力を尽くすべきの時なり。新法は固より厳なれども、能く一分を寛くすれば、則ち民は一分の賜を受く。劾を投じて去るも何の益あらん、と。〔馮述評〕李燔〔馮注、朱晦庵の弟子〕は常に言う、人は必ずしも仕宦して職事有るを待ちて才めて功業と為さず。但だ力に随いて到る処に、以て物に及ぶ有らば、即ち功業なり、と。蓮池大師は人に善事を作すを勧め、辞するに力無きを以てする者あれば、大師は凳を指して曰く、仮に此の凳の如き、欹斜して路を礙げば、吾れ之を整うるも、亦た一善なり、と。此の如く心を存せば、便ち臨難に劾を投ずる者は、宝山に空しく回るなるを覚ゆ。鮮于侁は利州路転運副使と為る。部民は青苗銭を請わず。王安石は吏を遣わして之を詰る。曰く、青苗の法は、願わば則ち取る。民は自ら願わず、豈に能く之を強いんや、と。東坡は侁を称して、上は法を害さず、中は親を廃さず、下は民を傷つけずとし、以て三難と為し、仕途は当に以て法と為すべしと言う。
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『智囊』小慧・某秀才・定遠弓箭手王卞は軍中に宴を置く。一角抵夫の甚だ魁岸にして大力を負う者有り、諸健卒と較うるに、悉く敵せず。坐間の一秀才は自ら能く之に勝つと言い、乃ち左指を以て略ぼ展ぶるに、魁岸の者は輒ち倒る、卞は以て神と為し、其の故を叩く。秀才云う、「此の人は醬を怕る、預め之を同伴より得たり、先に廚に入り、少許の醬を求め得て、彼の見れば輒ち倒るるのみ」と。濠州定遠県の一弓手は善く矛を用う。有偸も亦た此の技に精にして、毎に与に生死を決せんと欲す。一日、弓手は事に因りて村に至り、偸の適ま市に在りて飲むに値い、勢い避くべからず、遂に矛を曳きて闘う。観る者は堵の如し。久しくして、各ず未だ進むこと能わず、弓手は忽ち偸に謂いて曰く、「尉至れり、我と汝は皆な健者なり、汝は敢えて我と尉の前に生死を決せんや」と。偸曰く、「諾」と。弓手は声に応じて之を刺して斃す、蓋し其の隙に乗ずるなり。又た人の曾て強寇に遇う有り、闘い方に刃を接するに、寇は先に水を含みて口に満たし、忽ち其の面に噀く、其の人は愕然とし、刃は已に胸に揕さる。後に一壮士の復た寇と遇う有り、已に先に噀水の事を知り、寇は復た之を用い、反って刺す所と為る。
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