智囊 / 見大・徐階
徐存齋由翰林督學浙中,時年未三十。一士子文中用「顏苦孔之卓」。徐勒之,批云「杜撰」,置四等。此生將領責,執卷請曰:「大宗師見教誠當,但『苦孔之卓』出揚子《法言》,實非生員杜撰也。」徐起立曰:「本道僥倖太早,未嘗學問,今承教多矣!」改置一等。一時翕然,稱其雅量。〔馮述評〕不吝改過,即此便知名宰相器識。聞萬曆初年有士作「怨慕章」一題,中用「為舜也父者,為舜也母者」句,為文宗抑置四等,批「不通」字。此士自陳文法,出在「檀弓」。文宗大怒曰:「偏你讀『檀弓』!」更置五等。人之度量相越,何啻千里?宋藝祖嘗以事怒周翰,將杖之。翰自言:「臣負天下才名,受杖不雅。」帝遂釋之,古來聖主名臣,斷無使性遂非者。又聞徐公在浙時,有二生爭貢,嘩於堂下,公閱卷自若。已而有二生遜貢,嘩於堂下,公亦閱卷自若。頃之,召而謂曰:「我不欲使人爭,亦不能使人讓。諸生未讀教條乎?連本道亦在教條中,做不得主。諸生但照教條行事而已!」由是爭讓皆息,公之持大體皆此類。
新字:徐存斎由翰林督学浙中,時年未三十。一士子文中用「顔苦孔之卓」。徐勒之,批云「杜撰」,置四等。此生将領責,執巻請曰:「大宗師見教誠当,但『苦孔之卓』出揚子《法言》,実非生員杜撰也。」徐起立曰:「本道僥倖太早,未嘗学問,今承教多矣!」改置一等。一時翕然,称其雅量。〔馮述評〕不吝改過,即此便知名宰相器識。聞万暦初年有士作「怨慕章」一題,中用「為舜也父者,為舜也母者」句,為文宗抑置四等,批「不通」字。此士自陳文法,出在「檀弓」。文宗大怒曰:「偏你読『檀弓』!」更置五等。人之度量相越,何啻千里?宋芸祖嘗以事怒周翰,将杖之。翰自言:「臣負天下才名,受杖不雅。」帝遂釈之,古来聖主名臣,断無使性遂非者。又聞徐公在浙時,有二生争貢,嘩於堂下,公閲巻自若。已而有二生遜貢,嘩於堂下,公亦閲巻自若。頃之,召而謂曰:「我不欲使人争,亦不能使人譲。諸生未読教条乎?連本道亦在教条中,做不得主。諸生但照教条行事而已!」由是争譲皆息,公之持大体皆此類。
書き下し
徐存斎は翰林より督学として浙中に至る。時に年は未だ三十ならず。一士子の文中に顔苦孔之卓を用う。徐は之を勒し、批して杜撰と云い、四等に置く。此の生は将に責めを領せんとし、巻を執りて請いて曰く、大宗師の教えを見るは誠に当たれり。但し苦孔之卓は揚子の『法言』に出で、実に生員の杜撰に非ざるなり、と。徐は起立して曰く、本道は僥倖にして太だ早く、未だ嘗て学問せず。今、教えを承くること多し、と。改めて一等に置く。一時翕然として、其の雅量を称す。〔馮述評〕過ちを改むるを吝まざるは、即ち此れ名宰相の器識なるを知る。聞く、万暦初年に士の怨慕章の一題を作り、中に為舜也父者為舜也母者の句を用う。文宗の抑えて四等に置かれ、批して不通の字あり。此の士は自ら文法を陳べ、檀弓に出づと。文宗は大いに怒りて曰く、偏えに你は檀弓を読むか、と。更に五等に置く。人の度量の相い越ゆること、何ぞ啻に千里のみならんや。宋の藝祖は嘗て事を以て周翰に怒り、将に杖せんとす。翰は自ら言う、臣は天下の才名を負う。杖を受くるは雅ならず、と。帝は遂に之を釈す。古来の聖主名臣は、断じて性をして非に遂げしむること無し。又た聞く、徐公の浙に在りしとき、二生の貢を争いて堂下に嘩す有り。公は巻を閲すること自若たり。已にして二生の貢を遜る有りて、堂下に嘩す。公も亦た巻を閲すること自若たり。頃之して召して謂いて曰く、我れは人をして争わしめんと欲せず。亦た人をして譲らしむる能わず。諸生は未だ教条を読まざるか。本道すらも亦た教条の中に在り、主を做す得ず。諸生は但だ教条に照らして行うのみ、と。是に由りて争譲皆な息み、公の大体を持すること皆な此の類なり。
現代語訳
徐存斎は翰林院から督学官として浙江に赴任した。当時、年は三十にもなっていなかった。ある書生の答案に顔苦孔之卓という語があった。徐はこれを咎め、杜撰と批評して四等に置いた。この書生は叱責を受けようとして、答案を持って願い出た。大宗師のご指導はもっともです。ただし苦孔之卓は揚子の『法言』に出る語であり、実際には生員の杜撰ではありません、と。徐は立ち上がって言った。私は幸運にも早く出世したため、まだ学問をしていなかった。今、多くを教えられた、と。改めて一等に置いた。当時皆が口をそろえて、その度量をほめた。〔馮の評〕過ちを改めることを惜しまないのは、これこそ名宰相の器量だと分かる。聞くところによれば、万暦の初年にある書生が怨慕章の一題で文を作り、その中に為舜也父者為舜也母者の句を用いた。試験官は抑えて四等に置き、不通の字を批した。この書生は文法を述べ、檀弓に出ていると言った。試験官は大いに怒って言った。お前だけが檀弓を読んでいるのか、と。さらに五等に落とした。人の度量の違いは、千里どころではない。宋の太祖はかつて事で周翰に怒り、杖で打とうとした。周翰は自ら言った。臣は天下に才名を負っています。杖を受けるのは雅でありません、と。帝はそこで彼を許した。古来の聖主名臣は、決して性分のままに誤りを押し通すことがなかった。また聞くところでは、徐公が浙江にいたとき、二人の書生が貢生の座を争って堂下で騒いだ。公は答案を見るのが落ち着いていた。やがて二人の書生が貢生の座を譲り合って、堂下で騒いだ。公はやはり答案を見るのが落ち着いていた。しばらくして召して言った。私は人に争わせたくない。また人に譲らせることもできない。諸生は教条を読んでいないのか。私自身も教条の中にあり、主にはなれない。諸生はただ教条に従って行いなさい、と。これによって争いも譲りもやみ、公の大筋を保つやり方はみなこのようなものだった。
解説
この章句が説くこと
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史記 晋世家二月辛丑、咎犯秦・晋の大夫と郇に盟ふ。壬寅、重耳晋の師に入る。丙午、曲沃に入る。丁未、武宮に朝し、即位して晋君と為る。是を文公と為す。群臣皆往く。懐公圉高梁に奔る。戊申、人をして懐公を殺さしむ。懐公の故の大臣呂省・郤芮本より文公に附かず。文公立ち、誅せられんことを恐れ、乃ち其の徒と謀りて公宮を焼き、文公を殺さんと欲す。文公知らず。始め嘗て文公を殺さんと欲せし宦者履鞮其の謀を知り、以て文公に告げて、前の罪を解かんと欲し、文公に見えんことを求む。文公見えず、人をして譲めしめて曰く、「蒲城の事、女予が袪を斬る。其の後我狄君に従ひて猟す。女恵公の為に来たりて我を殺さんことを求む。恵公女と期するに三日にして至れとす。而るに女一日にして至る。何ぞ速やかなるや。女其れ之を念へ」と。宦者曰く、「臣は刀鋸の余なり。敢て二心を以て君に事へ主に倍かず。故に罪を君に得たり。君已に国に反る。其れ蒲・翟無からんや。且つ管仲鉤を射て、桓公以て覇たり。今刑余の人事を以て告ぐるも君見えずんば、禍又且に及ばんとす」と。是に於て之に見ゆ。遂に呂・郤等を以て文公に告ぐ。文公呂・郤を召さんと欲す。呂・郤等は党多し。文公初めて国に入り、国人の己を売らんことを恐れ、乃ち微行を為し、秦の繆公に王城に会す。国人知る莫し。三月己丑、呂・郤等果たして反し、公宮を焚くも、文公を得ず。文公の衛徒与に戦ふ。呂・郤等兵を引きて奔らんと欲す。秦の繆公呂・郤等を誘ひ、之を河上に殺す。晋国復して文公帰るを得たり。夏、夫人を秦に迎ふ。秦の文公に妻す所の者卒に夫人と為る。秦三千人を送りて衛と為し、以て晋の乱に備ふ。文公政を修め、恵みを百姓に施す。従亡の者及び功臣を賞し、大なる者は邑を封じ、小なる者は爵を尊くす。未だ尽くは賞を行はざるに、周の襄王弟帯の難を以て出でて鄭の地に居り、来たりて急を晋に告ぐ。晋初めて定まり、兵を発せんと欲するも、他の乱の起こらんことを恐る。是を以て従亡を賞するに未だ隠者介子推に至らず。推も亦た禄を言はず、禄も亦た及ばず。
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