智囊 / 見大・胡世寧
少保胡世寧,仁和人。為左都御史,掌院事。時當考察,執政請禁私謁。公言:「臣官以察為名。人非接其貌、聽其言,無以察其心之邪正、才之短長。若屏絕士夫,徒按考語,則毀譽失真。而求激揚之,難當矣。」上是其言,不禁。〔馮述評〕公孫弘曲學阿世,然猶能開東閣以招賢人;今世密於防奸而疏於求賢,故臨事遂有乏才之歎。
新字:少保胡世寧,仁和人。為左都御史,掌院事。時当考察,執政請禁私謁。公言:「臣官以察為名。人非接其貌、聴其言,無以察其心之邪正、才之短長。若屏絶士夫,徒按考語,則毀誉失真。而求激揚之,難当矣。」上是其言,不禁。〔馮述評〕公孫弘曲学阿世,然猶能開東閣以招賢人;今世密於防奸而疏於求賢,故臨事遂有乏才之嘆。
書き下し
少保の胡世寧は、仁和の人なり。左都御史と為り、院事を掌る。時に考察に当たり、執政は私謁を禁ぜんことを請う。公言う、臣の官は察を以て名と為す。人は其の貌に接し、其の言を聴くに非ざれば、以て其の心の邪正、才の短長を察する無し。若し士夫を屏絶して、徒だ考語に按ずれば、則ち毀誉は真を失う。而して之を激揚せんと求むるも、難し、と。上は其の言を是とし、禁ぜず。〔馮述評〕公孫弘は曲学阿世なれども、猶お能く東閣を開きて以て賢人を招く。今世は奸を防ぐに密にして賢を求むるに疎なり。故に事に臨んで遂に才に乏しきの歎有り。
現代語訳
少保の胡世寧は、仁和の人である。左都御史となり、都察院の事務を司った。ちょうど官吏の考課の時期で、執政は私的な面会を禁じるよう願い出た。胡世寧は言った。臣の官職は察することをその名としています。人はその顔つきに接し、その言葉を聞かなければ、心の邪正や才の長短を察することができません。もし士大夫を遠ざけて、ただ書類の評語だけに頼れば、毀誉は真実を失います。そうして人を励まし引き立てようとしても、難しいでしょう、と。皇帝はその言葉を正しいとし、禁じなかった。〔馮の評〕公孫弘は学を曲げて世に阿った人だが、それでも東の閣を開いて賢人を招くことはできた。今の世は悪事を防ぐのには細かく、賢人を求めるのには疎い。だから事に臨んで人材が乏しいと嘆くことになる。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 趙世家子及ばざるなり」と。遂に胡服して騎射を招く。二十年、王中山の地を略し、寧葭に至る。西のかた胡の地を略し、楡中に至る。林胡王馬を献ず。帰りて、楼緩をして秦に之かしめ、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、趙爵を斉に之かしむ。代の相趙固胡を主り、其の兵を致す。二十一年、中山を攻む。趙袑右軍と為り、許鈞左軍と為り、公子章中軍と為り、王并せて之に将たり。牛翦車騎に将たり。趙希并せて胡・代に将たり。趙之に陘を与へ、軍を曲陽に合し、丹丘・華陽・鴟の塞を攻め取る。王の軍鄗・石邑・封龍・東垣を取る。中山四邑を献じて和す。王之を許し、兵を罷む。二十三年、中山を攻む。二十五年、恵后卒す。周袑をして胡服して王子何に傅たらしむ。二十六年、復た中山を攻め、地を攘ひて北は燕・代に至り、西は雲中・九原に至る。二十七年五月戊申、大いに東宮に朝し、国を伝へ、王子何を立てて以て王と為す。王廟見の礼畢はり、出でて朝に臨む。大夫悉く臣と為る。肥義相国と為り、并せて王に傅たり。是を恵文王と為す。恵文王は、恵后呉娃の子なり。武霊王自ら号して主父と為す。主父、子をして国を治むるを主らしめんと欲して、身は胡服して士大夫を将ゐて西北のかた胡の地を略し、而して雲中・九原より直ちに南して秦を襲はんと欲す。是に於て詐りて自ら使者と為りて秦に入る。秦の昭王知らず。已にして其の状甚だ偉にして、人臣の度に非ざるを怪しみ、人をして之を逐はしむ。而るに主父馳せて已に関を脱す。審らかに之を問へば、乃ち主父なり。秦人大いに驚く。主父の秦に入りし所以の者は、自ら地形を略し、因りて秦王の人と為りを観んと欲すればなり。恵文王二年、主父新地を行り、遂に代に出で、西のかた楼煩王に西河に遇ひて其の兵を致す。三年、中山を滅ぼし、其の王を膚施に遷す。霊寿を起こし、北地方に従ひ、代の道大いに通ず。
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史記 河渠書天子既に封禅して山川を巡祭し、其の明年、旱し、封を乾かして雨少なし。天子乃ち汲仁・郭昌をして卒数万人を発して瓠子の決を塞がしむ。是に於て天子已に万里沙に事を用ひ、則ち還りて自ら決河に臨み、白馬・玉璧を河に沈め、群臣・従官をして将軍より已下皆薪を負ひて決河を窴がしむ。是の時東郡草を焼き、故を以て薪柴少なし。而して淇園の竹を下して以て楗と為す。天子既に河決に臨み、功の成らざるを悼み、乃ち歌を作りて曰く、「瓠子決す、将た柰何せん。皓皓旰旰として、閭殫く河と為る。殫く河と為りて地寧きを得ず、功已む時無くして吾山平らかなり。吾山平らかにして鉅野溢れ、魚沸郁して冬日に柏る。延道弛みて常流を離れ、蛟龍騁せて方に遠遊す。旧川に帰さば神なるかな沛たり、封禅せずんば安んぞ外を知らん。我が為に河伯に謂へ、何ぞ不仁なる、泛濫止まずして吾が人を愁へしむと。齧桑浮かびて淮・泗満ち、久しく反らずして水維れ緩し」と。一に曰く、「河湯湯として激して潺湲たり、北に渡りて汚る、浚流難し。長茭を搴りて美玉を沈む、河伯許すも薪属かず。薪属かざるは衛人の罪、焼きて蕭条たり、噫乎何を以てか水を御がん。林竹を穨して石菑を楗し、宣房塞がりて万福来る」と。是に於て卒に瓠子を塞ぎ、宮を其の上に築き、名づけて宣房宮と曰ふ。而して河を道きて北に二渠を行らし、禹の旧跡に復し、而して梁・楚の地復た寧く、水災無し。是より後、事を用ふる者争ひて水利を言ふ。朔方・西河・河西・酒泉は皆河及び川谷を引きて以て田に溉ぎ、而して関中の輔渠・霊軹は堵水を引き、汝南・九江は淮を引き、東海は鉅定を引き、泰山の下は汶水を引く。皆渠を穿ちて溉田と為すこと、各々万余頃。佗の小渠の山を披き道を通ずる者は、勝げて言ふ可からず。然れども其の著しき者は宣房に在り。
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