武士道 / 第十四章 婦人の教育と地位・心平らかならずば五音諧わず
我國文學の人口に膾炙せる佳句名吟は俳側纒綿たる女性の藻思を吐けるもの頗る多く、洵や女子は日本美文學史上に卓然たる地步を占めたるものなりき。舞踏(藝者の踊を謂ふに非らずして、武士の女兒の踊)を教ふるには、擧止を優美〓雅ならしむるを唯一の主旨とし、音樂は、父兄、良人の欝屈を慰せんが爲のものなりしを以て、此の藝能も亦た專修の技たらず、要するに窮極の目的は心念を清淨ならしむるにありたるを以て、心平ならずんば、五音自から諧はずと謂へり。乃ち靑年を教育するに當り、藝の要は必ずや德を補ふべきものなりとしたる思想の、又た爰に存するを見るべし。音樂舞踏は、人生に補ふに優美の情、快闊の性を以てするを得ば、其用既に足れりとし、此れを以て或は虛榮奢侈を街ふの具となすこと無し。
新字:我国文学の人口に膾炙せる佳句名吟は俳側纒綿たる女性の藻思を吐けるもの頗る多く、洵や女子は日本美文学史上に卓然たる地歩を占めたるものなりき。舞踏(芸者の踊を謂ふに非らずして、武士の女児の踊)を教ふるには、挙止を優美〓雅ならしむるを唯一の主旨とし、音楽は、父兄、良人の欝屈を慰せんが為のものなりしを以て、此の芸能も亦た専修の技たらず、要するに窮極の目的は心念を清浄ならしむるにありたるを以て、心平ならずんば、五音自から諧はずと謂へり。乃ち青年を教育するに当り、芸の要は必ずや徳を補ふべきものなりとしたる思想の、又た爰に存するを見るべし。音楽舞踏は、人生に補ふに優美の情、快闊の性を以てするを得ば、其用既に足れりとし、此れを以て或は虚栄奢侈を街ふの具となすこと無し。
書き下し
我国文学の人口に膾炙せる佳句名吟は、悱惻纏綿たる女性の藻思を吐けるもの頗る多く、洵や女子は日本美文学史上に卓然たる地歩を占めたるものなりき。舞踏(芸者の踊を謂ふに非らずして、武士の女児の踊)を教ふるには、挙止を優美(閑)雅ならしむるを唯一の主旨とし、音楽は父兄良人の鬱屈を慰せんが為のものなりしを以て、此の芸能も亦た専修の技たらず。要するに窮極の目的は心念を清浄ならしむるにありたるを以て、心平ならずんば五音自から諧はずと謂へり。乃ち青年を教育するに当り、芸の要は必ずや徳を補ふべきものなりとしたる思想の、又た爰に存するを見るべし。音楽舞踏は、人生に補ふに優美の情、快闊の性を以てするを得ば、其用既に足れりとし、此れを以て或は虚栄奢侈を衒ふの具となすこと無し。
現代語訳
わが国の文学で人々に親しまれている名句名歌には、切々と心にまといつくような女性の詩情を吐き出したものがきわめて多く、まことに女性は日本の文学史上に抜きん出た地位を占めていた。舞踊(芸者の踊りのことではなく、武士の娘の踊り)を教えるにあたっては、立ち居振る舞いを優美で上品にすることを唯一の目的とし、音楽は父や兄、夫の沈んだ気持ちを慰めるためのものであったから、この芸能もまた専門に修める技ではなかった。要するに究極の目的は心を清らかにすることにあったので、心が穏やかでなければ音はおのずから調和しない、と言われた。すなわち若者を教育するにあたり、芸の要は必ず徳を補うものでなければならないとする考えが、ここにもまた見られるのである。音楽や舞踊は、人生に優美な情と明るくのびやかな性質を補うことができれば、その役目はもう十分だとされ、これを虚栄やぜいたくを見せびらかす道具にすることはなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之二朱子曰く、才は是れ心の力なり、と。蓋し能く善を為し能く悪を為す、皆是れ心の力なり。故に才に善有り悪有り。君子の才有り、小人の才有り。窃かに朱子の言を以て之を推して自ら謂ふ、徳は心の善なり。心の力と相対す。蓋し心の善は、即ち是れ仁義礼智にして、天に得る者有り。天性なり。又道を行ひて心に得る者有り。此れ人為なり。此の二者は、皆心に得る者にして、心の善なり。得とは何ぞや。善を得るを言ふ。故に古人曰く、徳は得なり、と。
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『慎思録』巻之一古人の学を為すや、道明らかに徳立つ所以の者は、何ぞや。其の心を用ふることの精しきに因るなり。今人の学を為すや、道明らかならず、徳立たざる所以の者は、何ぞや。其の心を用ふること粗きに因るなり。蓋し心を用ふること精しければ、則ち其の理を察すること密なり。故に其の道明らかなり。其の力行すること慎む。故に其の徳立つ。心を用ふること粗き者は此に反す。程子以為へらく、顔子の未だ聖人に至らざる所以は、其の心麤なればなりと。夫れ顔子の聡明純粋を以てして、尚ほ且つ此くの如し。況んや凡そ学ぶ者、豈に心を此に用ひざるべけんや。技芸に至るも亦然り。其の良拙有る所以は、心を用ふることの精粗有るに由るのみ。本邦の人、古来文学道芸の中華に及ばざる所以も、亦粗に傷るるに因るなり。
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『慎思録』巻之四忿を懲らし慾を窒ぐは、豈に養徳の道のみならんや。抑も復た養生の方なり。蓋し忿慾は能く徳を害し、且つ能く生を害す。故に養徳と養生と、其の道一なり。平安城の人風竹散人なる者は、我の旧朋なり。博覧にして文を能くし、良医為り。其の言に曰く、凡そ富に三等有り。第宅宏麗にして、資財殷充なる者は、家富なり。四体康健にして、耳目聡明なる者は、身富なり。旁く物理に通じ、広く古今を識る者は、心富なり。三者得て兼ぬべからずんば、将た何をか取らん。家富は身富に如かず、身富は心富に如かず。故に顔子は其の楽しみを改めず、荘周は犠牛と為るを畏る、と。世俗は唯だ家富を尚び、未だ嘗て論じて身心の上に及ばず。故に貧士に其の楽しみを知らざる者有り。篤信曰く、富に三等有りとは、是れ前人の未だ発せざる所にして、好き議論と謂ふべし。
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『慎思録』巻之二好悪正しからざるは、是れ人道の廃るる所以なり。好悪正しければ、則ち人道立ちて、行はる。好悪の正と不正と、其の繋かる所の大なること此くの如し。君子の心は、青天白日の蔽昧無きが如く然り。其の奥乎として測るべからざる者は、徳の深厚なるを以てなり。猶ほ水澄明なりと雖も、其の積むこと深き者は、沕として測り難きがごとし。小人の心は、頑雲陰霧の晴明ならざるが如く然り。其の浅くして測り易き者は、其の心の浅薄なるを以てなり。
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論語・八佾篇子、魯の太師に楽を語りて曰く、『楽は其れ知る可し。始め作せば翕(きゅう)の如く、之れに従えば純の如く、繹(えき)の如くして以て成る。』
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『墨子』三辯程繁、子墨子に問いて曰く、「『聖王は樂を為さず』と。昔、諸侯は聴治に倦めば、鍾鼔の樂に息い、士大夫は聴治に倦めば、竽瑟の樂に息い、農夫は春に耕し夏に耘り、秋に斂め冬に蔵むれば、聆缶の樂に息う。今、夫子は『聖王は樂を為さず』と曰う。此れ之を譬うるに猶お馬駕して稅かず、弓張りて弛めざるがごとし。乃ち血氣有る者の至る能わざる所に非ざる無からんや」と。子墨子曰く、「昔者、堯舜に《第期》なる者有り、且つ以て禮と為し、且つ以て樂と為す。湯、桀を大水に放ち、天下を環りて自ら立ちて以て王と為り、事成り功立ちて、大いなる後患無し。自ら樂を作り、命じて《九招》と曰う。武王、殷に勝ち紂を殺し、天下を環りて自ら立ちて以て王と為り、事成り功立ちて、大いなる後患無し。先王の樂に因り、又た自ら樂を作り、命じて《象》と曰う。周の成王は先王の樂に因り、命じて《騶虞》と曰う。周の成王の天下を治むるや、武王に若かず。武王の天下を治むるや、成湯に若かず。成湯の天下を治むるや、堯舜に若かず。故に其の樂の逾いよ繁き者は、其の治、逾いよ寡し。此れより之を觀れば、樂は天下を治むる所以に非ざるなり」と。
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