武士道 / 第九章 忠節・死諫の赤誠
されど武士たるもの其際、自から刄に伏し、血を濺いで死諫の赤誠を表し、以て君主の良智良能に訴ふるは、盖し其常とする所なりき。廉耻に在りき。生命は即ち以て君に盡すの器にして、人生の理想は名譽故に武士の教育は乃ち之を以て其準據としたり。〓り〓り/nc/山火
新字:されど武士たるもの其際、自から刄に伏し、血を濺いで死諫の赤誠を表し、以て君主の良智良能に訴ふるは、盖し其常とする所なりき。廉耻に在りき。生命は即ち以て君に尽すの器にして、人生の理想は名誉故に武士の教育は乃ち之を以て其準拠としたり。〓り〓り/nc/山火
書き下し
されど武士たるもの其際、自から刃に伏し、血を濺いで死諫の赤誠を表し、以て君主の良智良能に訴ふるは、けだし其常とする所なりき。生命は即ち以て君に尽すの器にして、人生の理想は名誉廉恥に在りき。故に武士の教育は乃ち之を以て其準拠としたり。
現代語訳
しかし武士たる者は、そのような時、自ら刃に伏し、血を注いで、死をもって諫める真心を示し、それによって主君の生まれもった良い知恵と能力に訴えるのが、思うに常のことであった。命は主君に尽くすための器であり、人生の理想は名誉と廉恥にあった。だから武士の教育は、これを基準としたのである。
解説
主君が誤った道を進むとき、武士はどうしたか。前段で新渡戸は、忠節とは主君の気まぐれに盲従することではなく、諫めて容れられなければ、というところまで論じています。そしてこの段で、武士は自ら刃に伏して死をもって諫め、主君の良心に訴えるのを常とした、と述べます。死諫は命を懸けて主君を正す行為で、黙って従うことでも去ることでもない第三の道でした。命は主君に尽くすための器であり、人生の理想は名誉と廉恥にあった、という要約で忠節の章は閉じられ、それがそのまま次章の武士の教育の基準へつながります。忠は盲従ではないという点は、現代の組織にも重い問いを投げかけます。あなたは上の人の誤りを前にしたとき、黙って従いますか、それとも身を賭して諫めますか。
この章句が説くこと
忠節諫言名誉廉恥死諫
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