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武士道 / 第九章 忠節・諫めて容れられざるとき

我が良心をも犧牲として、尙ほ君主の恣意、妄心邪僻を助くる者は、武士道の曾て齒せざる所にして、此輩を卑しめて、語諛の侫臣となし、又た賤劣なる面從を事として君寵を私するの嬖臣となす。この二種の臣は、正にイアゴーが云へる如くに、一は我が身を繫ぐ頸の綱を押し戴き、主が既の驢馬同然、むざむざ一生を仇に過ごす、正直な、はひつくばひの愚者なり。他は又た、陽に忠義らしき、身振業體を作りたて、心の底では、我身の爲ばかりを圖る者なり。臣下忠節の道は、リア王に仕へしケントの如く能く君に献替して納れられずとも、百方諫諍し、抂を矯め非を正して、上の謬を救ふにありき。而して尙ほ用ゐられざるに於ては君主をして唯だ其欲する所に任かすあらむのみ。

新字:我が良心をも犠牲として、尚ほ君主の恣意、妄心邪僻を助くる者は、武士道の曽て齒せざる所にして、此輩を卑しめて、語諛の侫臣となし、又た賤劣なる面従を事として君寵を私するの嬖臣となす。この二種の臣は、正にイアゴーが云へる如くに、一は我が身を繋ぐ頸の綱を押し戴き、主が既の驢馬同然、むざむざ一生を仇に過ごす、正直な、はひつくばひの愚者なり。他は又た、陽に忠義らしき、身振業体を作りたて、心の底では、我身の為ばかりを図る者なり。臣下忠節の道は、リア王に仕へしケントの如く能く君に献替して納れられずとも、百方諫諍し、抂を矯め非を正して、上の謬を救ふにありき。而して尚ほ用ゐられざるに於ては君主をして唯だ其欲する所に任かすあらむのみ。

書き下し

我が良心をも犠牲として、なほ君主の恣意、妄心邪僻を助くる者は、武士道のかつて歯せざる所にして、此輩を卑しめて、諂諛の侫臣となし、又た賤劣なる面従を事として君寵を私するの嬖臣となす。この二種の臣は、正にイアーゴーが云へる如くに、一は『我が身を繋ぐ頸の綱を押し戴き、主が飼へる驢馬同然、むざむざ一生を仇に過ごす、正直な、這ひつくばひの愚者』なり。他は又た『陽に忠義らしき身振業体を作りたて、心の底では我身の為ばかりを図る者』なり。臣下忠節の道は、リア王に仕へしケントの如く、能く君に献替して納れられずとも、百方諫諍し、枉を矯め非を正して、上の謬を救ふにありき。而してなほ用ゐられざるに於ては、君主をしてただ其欲する所に任かすあらむのみ。

現代語訳

自分の良心をも犠牲にして、なお君主の勝手気ままや邪な心を助ける者は、武士道が決して相手にしないところで、こういう者を卑しめて、へつらう佞臣とし、また卑しく表面だけ従って君の寵愛を独り占めする寵臣とします。この二種類の臣は、まさにイアーゴーが言ったように、一つは、自分を繋ぐ首の綱を押し戴き、主人が飼う驢馬同然に、むざむざ一生を無駄に過ごす、正直で這いつくばった愚か者です。もう一つは、表向きは忠義らしい身振りを作り立てて、心の底では自分のためばかりを図る者です。臣下の忠節の道は、リア王に仕えたケントのように、よく君に意見を申し上げて受け入れられなくても、あらゆる方法で諫め、曲がりを直し非を正して、上の誤りを救うことにありました。そしてなお用いられないときには、君主にただその望むところを任せるほかありません。

解説

忠臣と佞臣の区別が示されます。良心を犠牲にして主君の我がままを助ける者は忠臣ではない。愚かに従う者と、従うふりをして自分を図る者の二種類が挙げられ、どちらも退けられます。本当の忠節は諫めることだ、という結論で、リア王のケントが例に引かれます。そして諫めて聞かれなければ任せるほかない、と限界も認める。師導の『貞観政要』や『臣軌』も同じ問題を扱っており、諫言の作法として読み比べられます。

この章句が説くこと

忠節諫言佞臣良心限界

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