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武士道 / 第五章 仁・愛不忍の心・無官の大夫敦盛

流石の熊谷も打驚かれつゝ、腕をゆるめ、扶け起して、あな美しの若殿や、助け參らせん程に御母の許へ落ちさせ給へ、熊谷の刄は、和殿の血に染むべきものならず。敵に見咎められぬ間に、とくとく逃げ延びたまへとありければ、上〓は、吾妻の武士は、唯だ荒くれたる男とのみ思ひけるに、かくもやさしき武夫もありけるか、我こそは無官の大夫敦盛なれ。一旦敵に組敷かれながら、助からんは武夫の耻ぞ、熊谷ごとき情知つたる武夫に、首打たれんは本望なり、和殿も我を討つて功名せよやと云ふ。老功の熊谷が霜置く頭に振り翳したるこそ、あまた度、人の玉の緒を絕ちける刄なれ。されど猛き心も碎け、我子の小次郞が今日の初陣に、貝鐘諸共に先驅けしたる姿も目のあたり映じて、武夫の强き腕も戰く。再び落ちさせ給へと云ふ、敦盛聽かず。後を顧みれば味方の軍兵雲霞の如くに滿ち〓〓たり。

新字:流石の熊谷も打驚かれつゝ、腕をゆるめ、扶け起して、あな美しの若殿や、助け参らせん程に御母の許へ落ちさせ給へ、熊谷の刄は、和殿の血に染むべきものならず。敵に見咎められぬ間に、とくとく逃げ延びたまへとありければ、上〓は、吾妻の武士は、唯だ荒くれたる男とのみ思ひけるに、かくもやさしき武夫もありけるか、我こそは無官の大夫敦盛なれ。一旦敵に組敷かれながら、助からんは武夫の耻ぞ、熊谷ごとき情知つたる武夫に、首打たれんは本望なり、和殿も我を討つて功名せよやと云ふ。老功の熊谷が霜置く頭に振り翳したるこそ、あまた度、人の玉の緒を絶ちける刄なれ。されど猛き心も砕け、我子の小次郎が今日の初陣に、貝鐘諸共に先駆けしたる姿も目のあたり映じて、武夫の強き腕も戦く。再び落ちさせ給へと云ふ、敦盛聴かず。後を顧みれば味方の軍兵雲霞の如くに満ち〓〓たり。

書き下し

さすがの熊谷も打ち驚かれつつ、腕をゆるめ、扶け起して、あな美しの若殿や、助け参らせん程に、御母の許へ落ちさせ給へ、熊谷の刃は、和殿の血に染むべきものならず。敵に見咎められぬ間に、とくとく逃げ延びたまへとありければ、上(臈)は、吾妻の武士は、唯だ荒くれたる男とのみ思ひけるに、かくもやさしき武夫もありけるか、我こそは無官の大夫敦盛なれ。一旦敵に組み敷かれながら、助からんは武夫の恥ぞ、熊谷ごとき情知つたる武夫に、首打たれんは本望なり、和殿も我を討つて功名せよやと云ふ。老功の熊谷が霜置く頭に振り翳したるこそ、あまた度、人の玉の緒を絶ちける刃なれ。されど猛き心も砕け、我子の小次郎が今日の初陣に、貝鐘諸共に先駆けしたる姿も目のあたり映じて、武夫の強き腕も戦く。再び落ちさせ給へと云ふ、敦盛聴かず。後を顧みれば味方の軍兵雲霞の如くに満ち(満ち)たり。

現代語訳

さすがの熊谷も驚いて腕をゆるめ、助け起こして、「なんと美しい若殿か。お助けするから、母君のもとへ落ち延びなさい。熊谷の刀はあなたの血で染めるべきものではない。敵に見とがめられないうちに、早く早く逃げ延びなさい」と言った。すると貴公子(上(臈))は、「東国の武士はただ荒くれた男ばかりと思っていたが、こんなにやさしい武士もいたのか。私こそは無官の大夫、敦盛(平敦盛)である。いったん敵に組み伏せられながら助かるのは武士の恥だ。熊谷のように情けを知る武士に首を打たれるなら本望である。あなたも私を討って手柄にせよ」と言う。老練な熊谷が霜を置いたような白髪頭の上に振りかざしたのは、これまで幾度も人の命を絶ってきた刀であった。しかし猛々しい心も砕け、わが子の小次郎が今日の初陣で、ほら貝や鐘の音とともに先駆けした姿も目の前に浮かび、武士の強い腕も震える。「もう一度言う、落ち延びなさい」と言うが、敦盛は聞き入れない。後ろを振り返ると、味方の軍勢が雲や霞のように満ち(満ち)ていた。

解説

熊谷が若武者を逃がそうとし、敦盛がそれを拒む場面です。わが子と同じ年ごろの少年を前に、幾人もの命を絶ってきた老武者の腕が震えます。仁とは弱い者への同情だけでなく、敵の中に自分の子を見てしまう心の動きでもあることが、物語の力で示されています。一方の敦盛は、助かるのは武士の恥だ、情けを知る武士に討たれるなら本望だと答え、名誉の側から熊谷の情けを退けます。仁と名誉がぶつかり、どちらも引かない場面を、新渡戸は西洋の読者に騎士物語のように読ませようとしています。後ろには味方の大軍が迫り、逃がす道も閉ざされつつあります。あなたは、情けをかけることが相手の誇りを傷つける場面に出会ったとき、どう振る舞いますか。

この章句が説くこと

仁名誉敦盛熊谷直実情け

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