武士道 / 第五章 仁・愛不忍の心・熊谷直実と若武者
神功皇后が征韓の軍令にも曰はずや、『姦謀勿聽、自服勿殺』弱者、劣者、敗者に對して仁恕なるは、賛して武士の美德と、なす所なりき。日本美術の翫賞家は、屢ば行脚の一僧の、逆馬に跨るの繪畫を視ることあらん。この逆馬の僧こそ、俗なりける日には其名を聞くだに尙ほ人の怖れし猛者なりけれ。頃は壽永の秋の暮、須磨、一の谷の合戰に、源平兩家玆を先途と鎬を削りて戰ひける時熊谷は敵の若武者を追驅け、强き腕に組んで伏せたりけるが、扨もかゝる時組敷がれたる人の、天晴の大將軍か、力量劣らぬ剛の者ならでは、血を流さぬが戰の作法なりければ、上なる武士は云ふやう、我こそは熊谷の次郞直實なれ、抑も和殿は何人にておはすと問へど、唯だ夙う〓〓首取りて人に問へ、見知らうずるぞと答ふ。熊谷、其兜を押し仰けて見るに、我子の小次郞の齢ほどして十六七なるが、容顏まことに美麗なり。
新字:神功皇后が征韓の軍令にも曰はずや、『姦謀勿聴、自服勿殺』弱者、劣者、敗者に対して仁恕なるは、賛して武士の美徳と、なす所なりき。日本美術の翫賞家は、屡ば行脚の一僧の、逆馬に跨るの絵画を視ることあらん。この逆馬の僧こそ、俗なりける日には其名を聞くだに尚ほ人の怖れし猛者なりけれ。頃は寿永の秋の暮、須磨、一の谷の合戦に、源平両家玆を先途と鎬を削りて戦ひける時熊谷は敵の若武者を追駆け、強き腕に組んで伏せたりけるが、扨もかゝる時組敷がれたる人の、天晴の大将軍か、力量劣らぬ剛の者ならでは、血を流さぬが戦の作法なりければ、上なる武士は云ふやう、我こそは熊谷の次郎直実なれ、抑も和殿は何人にておはすと問へど、唯だ夙う〓〓首取りて人に問へ、見知らうずるぞと答ふ。熊谷、其兜を押し仰けて見るに、我子の小次郎の齢ほどして十六七なるが、容顔まことに美麗なり。
書き下し
神功皇后が征韓の軍令にも曰はずや、『姦謀勿聴、自服勿殺』と。弱者、劣者、敗者に対して仁恕なるは、賛して武士の美徳となす所なりき。日本美術の翫賞家は、しばしば行脚の一僧の、逆馬に跨るの絵画を視ることあらん。この逆馬の僧こそ、俗なりける日には、其名を聞くだになほ人の怖れし猛者なりけれ。頃は寿永の秋の暮、須磨、一の谷の合戦に、源平両家ここを先途と鎬を削りて戦ひける時、熊谷は敵の若武者を追ひ駆け、強き腕に組んで伏せたりけるが、さてもかかる時、組敷かれたる人の、天晴の大将軍か、力量劣らぬ剛の者ならでは、血を流さぬが戦の作法なりければ、上なる武士は云ふやう、我こそは熊谷の次郎直実なれ、そもそも和殿は何人にておはすと問へど、唯だ疾う(疾う)首取りて人に問へ、見知らうずるぞと答ふ。熊谷、其兜を押し仰けて見るに、我子の小次郎の齢ほどして、十六七なるが、容顔まことに美麗なり。
現代語訳
神功皇后(伝説上の皇后)の朝鮮出兵の軍令にも、「悪だくみに耳を貸すな、自ら降った者を殺すな」と言っているではないか。弱い者、劣った者、敗れた者に対して情け深くあることは、武士の美徳としてほめたたえられた。日本美術を愛好する人は、行脚する一人の僧が馬に後ろ向きにまたがっている絵をしばしば目にするだろう。この後ろ向きに馬に乗る僧こそ、俗人であった頃には、その名を聞くだけで人が恐れた猛者であった。時は寿永の秋の暮れ(実際には二月)、須磨・一の谷の合戦で、源氏と平家の両家がここを勝負どころと激しく戦っていた時、熊谷は敵の若武者を追いかけ、強い腕で組み伏せた。ところで、このような場合、組み伏せられた者が立派な大将軍か、力の劣らない剛の者でなければ、血を流さないのが戦の作法であったので、上になった武士は、「私こそは熊谷次郎直実である。そもそもあなたはどなたでおられるか」と尋ねた。だが若武者は「ただ早く(早く)首を取って人に尋ねよ。見知った者があろう」と答えた。熊谷がその兜を押し上げて見ると、わが子の小次郎と同じくらいの年ごろで、十六、七歳ほど、顔立ちはまことに美しかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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論語・雍也篇宰我問いて曰く、「仁者は之に告げて『井に仁有り』と曰うと雖も、其れ之に従わんか。」子曰く、「何為れぞ其れ然らんや。君子は逝かしむ可きも、陥る可からず。欺く可きも、罔う可からず。」
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論語・八佾篇子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如(いかん)せん;人にして仁ならずんば、楽を如せん。
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論語・憲問篇「克・伐・怨・欲、行われずんば、以て仁と為す可きか。」子曰く、「以て難しと為す可し。仁は則ち吾知らざるなり。」
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論語・里仁篇子曰わく、不仁者は久しく約に処るべからず、長く楽に処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。
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論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。
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論語・微子篇微子これを去り、箕子これに為に奴となり、比干諫めて死す。孔子曰わく、殷に三仁有り。
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