文子 / 道德
老子曰:夫亟戰而數勝者,即國亡,亟戰即民罷,數勝即主驕,以驕主使罷民,而國不亡者即寡矣。主驕即恣,恣即極物,民罷即怨,怨即極慮,上下俱極而不亡者,未之有也。故“功遂身退,天之道也。”
新字:老子曰:夫亟戦而数勝者,即国亡,亟戦即民罷,数勝即主驕,以驕主使罷民,而国不亡者即寡矣。主驕即恣,恣即極物,民罷即怨,怨即極慮,上下倶極而不亡者,未之有也。故“功遂身退,天之道也。”
書き下し
老子曰く、夫れ亟々戦いて数々勝つ者は、即ち国亡ぶ。亟々戦えば即ち民罷れ、数々勝てば即ち主驕る。驕れる主を以て罷れたる民を使いて、国亡びざる者は、即ち寡し。主驕れば即ち恣、恣なれば即ち物を極め、民罷るれば即ち怨み、怨めば即ち慮りを極む。上下倶に極まりて亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。故に功遂げて身退くは、天の道なりと。
現代語訳
老子は言った。しばしば戦ってたびたび勝つ者は、国が亡びる。しばしば戦えば民は疲れ、たびたび勝てば君主は驕る。驕った君主で疲れた民を使って、国が亡びない例はまれである。君主が驕れば放縦になり、放縦になれば物を極め尽くし、民が疲れれば怨み、怨めば思い詰める。上下が共に極まって亡びなかった者は、これまでいない。だから「功遂げて身退くは、天の道なり」と言う。
解説
勝ち続けることの危うさを述べた段です。連戦連勝そのものが、民の疲れと君主の驕りという二つの内部崩壊を同時に進めます。「驕れる主を以て罷れたる民を使いて、国亡びざる者は、即ち寡し」。成長が続く会社が、気がつけば社員の疲弊と経営者の過信を抱えている、という状況にそのまま重なります。上下ともに限界まで行ってしまうと、立て直しがききません。老子の結びの句は、「功遂げて身退く」。成功の頂で一歩引く、すなわち勝ちを重ねたあとの減速と交代の勧めとして読めます。
この章句が説くこと
亟々戦いて数々勝つ者は即ち国亡ぶ驕れる主を以て罷れたる民を使いて上下倶に極まりて亡びざる者功遂げて身退くは天の道なり成功驕り
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