文子 / 道德
文子問聖智。老子曰:聞而知之,聖也,見而知之,智也。聖人嘗聞禍福所生而擇其道,智者嘗見禍福成形而擇其行,聖人知天道吉凶,故知禍福所生,智者先見成形,故知禍福之門。聞未生,聖也,先見成形,智也,無聞見者,愚迷。
新字:文子問聖智。老子曰:聞而知之,聖也,見而知之,智也。聖人嘗聞禍福所生而択其道,智者嘗見禍福成形而択其行,聖人知天道吉凶,故知禍福所生,智者先見成形,故知禍福之門。聞未生,聖也,先見成形,智也,無聞見者,愚迷。
書き下し
文子、聖智を問う。老子曰く、聞きて之を知るは、聖なり。見て之を知るは、智なり。聖人は嘗て禍福の生ずる所を聞きて其の道を択び、智者は嘗て禍福の形を成すを見て其の行いを択ぶ。聖人は天道の吉凶を知る、故に禍福の生ずる所を知る。智者は先に成れる形を見る、故に禍福の門を知る。未だ生ぜざるを聞くは、聖なり。先に成れる形を見るは、智なり。聞見無き者は、愚迷なり。
現代語訳
文子が聖と智について問うた。老子は言った。聞いて知るのが聖であり、見て知るのが智である。聖人は、禍福の生まれるもとを聞いてその道を選び、智者は、禍福が形になるのを見てその行いを選ぶ。聖人は天道の吉凶を知っているから、禍福の生じるもとを知っている。智者は、すでに成った形を先に見るから、禍福の入り口を知る。まだ生じていないものを聞き取るのが聖であり、すでに成った形を前もって見るのが智である。聞くことも見ることもない者が、愚かで迷う者である。
解説
聖と智の区別を、知り方の違いで説いた短い段です。「聞きて之を知るは、聖なり。見て之を知るは、智なり」。聖は兆しの手前で、智は形になった時点で、禍福の筋道をつかみます。どちらも、聞くか見るかのどちらかには届いているので、判断の材料はある。差が出るのは「聞見無き者」、つまり耳目を働かせない人です。経営で言えば、数字になる前の現場の声を拾う感度と、数字に出た異変を見逃さない目の、二つを持つかどうかに当たります。どちらも欠くと迷う、という整理です。
この章句が説くこと
聞きて之を知るは聖なり見て之を知るは智なり禍福の生ずる所聞見無き者は兆し聖智
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