文子 / 精誠
老子曰:神越者言華,德蕩者行偽,至精芒乎中,而言行觀乎外,此不免以身役物也。精有愁盡而行無窮極,所守不定而外淫於世俗之風,是故聖人內脩道術而不外飾仁義,知九竅四肢之宜,而遊乎精神之和,此聖人之游也。
新字:老子曰:神越者言華,徳蕩者行偽,至精芒乎中,而言行観乎外,此不免以身役物也。精有愁尽而行無窮極,所守不定而外淫於世俗之風,是故聖人内脩道術而不外飾仁義,知九竅四肢之宜,而遊乎精神之和,此聖人之游也。
書き下し
老子曰く、神越れば言華やかに、徳蕩けば行偽る。至精の中に芒たるも、言行外に観る。此れ身を以て物に役せらるるを免れざるなり。精には愁尽有るも行には窮極無く、守る所定まらずして外は世俗の風に淫す。是の故に聖人は内に道術を修めて外に仁義を飾らず、九竅四肢の宜しきを知りて、精神の和に遊ぶ。此れ聖人の游なり。
現代語訳
老子は言った。精神が乱れると言葉は派手になり、徳が揺らぐと行いは偽りになる。心の奥の精はぼんやりとしているのに、言葉や行いが外に見える。これでは、身を物に使われることを免れない。精には尽きる憂いがあるのに行いには際限がなく、守るものが定まらず、外では世俗の風にまかせてしまう。だから聖人は内に道の術を修めて外に仁義を飾らず、九つの穴や手足の働きの宜しさを知り、精神の調和の中に遊ぶ。これが聖人の遊びである。
解説
言葉の派手さと行いの偽りは、内側の精神の乱れから出る、という指摘です。「神越れば言華やかに」は、不安や焦りが強いほど言葉が飾られ、声が大きくなる、という観察として読めます。そして、聖人は「内に道術を修めて外に仁義を飾らず」。前段の仁義論の続きで、外に飾るのは内が整っていないから、という判断です。会議で言葉が多い人、資料が過剰に装飾される場面は、中身の不安の裏返しかもしれません。内を整える時間を取らず、外を整えるほど疲れが先に来ます。精には限りがあるのに行いに限りがない、という指摘も働き方の警告になります。
この章句が説くこと
神越れば言華やかに徳蕩けば行偽る内に道術を修めて外に仁義を飾らず内省真心言行
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