武教講録 / 與受・弟や二三男を家に残す家子の制
(左傳、桓公二年、師服曰、天子建國、諸侯立家、卿置側室、大夫有貳宗、士有隸子弟、庶人工商各有分親、杜預云、適子爲小宗、次者爲貳宗、以相輔貳、士卑自以其子弟爲僕隸、庶人無復尊卑、以親疏爲分別也、)其一家に隸し、且學且耕し、又是が婚娶をなし、永く宗家を輔貳せしむべし、然る時は子孫自ら繁昌して血統を絕つの患なし、此法を推して養子を禁ずるの一官命もあり度となれども、玆には姑く置て議せず、(水戸の豊田彦次郎、亦曾て此說をなす)唯有志の士相共に商議し、私に此法を行て世人をして其便なるとを曉らせ度となり、世人往々榮利を慕て親義を顧みず、弟若くは二三男あれば視て奇貨となし、以て他家許多の祿を博取せんと欲す、弟の班兄より崇く、子の祿父より厚き、習ひ以て常とし、曾に怪まざるのみならず、自誇て計を得たりとす、是其目前の小利に惑ひ、遠慮なく大謀なきと論を待たず、若し官命を以て是を行ふに至ては別に自ら好計あり、亦玆に議せず、世人又常に云ふ、小祿にて多くの子弟を育くむと難澁なり、早く他家へ分出せねば立行ぬなりと、此事已むとなきに似て、其實は大に然らず、今極て小祿にて家內十數人を育む者あり、是にても餓死もせず、又大祿にて僅々三四人を育み貧窮を憂る者あり、盖し士の貧富徒に祿の大小人の多寡のみに由るに非ず、其由る所頗る多端也、要するに、制を立つるの得失に由るのみ、大氏男子二十以外六七十以內にして、
新字:(左伝、桓公二年、師服曰、天子建国、諸侯立家、卿置側室、大夫有貳宗、士有隸子弟、庶人工商各有分親、杜預云、適子為小宗、次者為貳宗、以相輔貳、士卑自以其子弟為僕隸、庶人無復尊卑、以親疏為分別也、)其一家に隸し、且学且耕し、又是が婚娶をなし、永く宗家を輔貳せしむべし、然る時は子孫自ら繁昌して血統を絶つの患なし、此法を推して養子を禁ずるの一官命もあり度となれども、玆には姑く置て議せず、(水戸の豊田彦次郎、亦曽て此説をなす)唯有志の士相共に商議し、私に此法を行て世人をして其便なるとを暁らせ度となり、世人往々栄利を慕て親義を顧みず、弟若くは二三男あれば視て奇貨となし、以て他家許多の禄を博取せんと欲す、弟の班兄より崇く、子の禄父より厚き、習ひ以て常とし、曽に怪まざるのみならず、自誇て計を得たりとす、是其目前の小利に惑ひ、遠慮なく大謀なきと論を待たず、若し官命を以て是を行ふに至ては別に自ら好計あり、亦玆に議せず、世人又常に云ふ、小禄にて多くの子弟を育くむと難渋なり、早く他家へ分出せねば立行ぬなりと、此事已むとなきに似て、其実は大に然らず、今極て小禄にて家内十数人を育む者あり、是にても餓死もせず、又大禄にて僅々三四人を育み貧窮を憂る者あり、盖し士の貧富徒に禄の大小人の多寡のみに由るに非ず、其由る所頗る多端也、要するに、制を立つるの得失に由るのみ、大氏男子二十以外六七十以内にして、
書き下し
(左傳、桓公二年、師服曰、天子建國、諸侯立家、卿置側室、大夫有貳宗、士有隸子弟、庶人工商各有分親、杜預云、適子爲小宗、次者爲貳宗、以相輔貳、士卑自以其子弟爲僕隸、庶人無復尊卑、以親疏爲分別也、)其一家に隸し、且學且耕し、又是が婚娶をなし、永く宗家を輔貳せしむべし、然る時は子孫自ら繁昌して血統を絕つの患なし、此法を推して養子を禁ずるの一官命もあり度となれども、玆には姑く置て議せず、(水戸の豊田彦次郎、亦曾て此說をなす)唯有志の士相共に商議し、私に此法を行て世人をして其便なるとを曉らせ度となり、世人往々榮利を慕て親義を顧みず、弟若くは二三男あれば視て奇貨となし、以て他家許多の祿を博取せんと欲す、弟の班兄より崇く、子の祿父より厚き、習ひ以て常とし、曾に怪まざるのみならず、自誇て計を得たりとす、是其目前の小利に惑ひ、遠慮なく大謀なきと論を待たず、若し官命を以て是を行ふに至ては別に自ら好計あり、亦玆に議せず、世人又常に云ふ、小祿にて多くの子弟を育くむと難澁なり、早く他家へ分出せねば立行ぬなりと、此事已むとなきに似て、其實は大に然らず、今極て小祿にて家內十數人を育む者あり、是にても餓死もせず、又大祿にて僅々三四人を育み貧窮を憂る者あり、盖し士の貧富徒に祿の大小人の多寡のみに由るに非ず、其由る所頗る多端也、要するに、制を立つるの得失に由るのみ、大氏男子二十以外六七十以內にして、
現代語訳
(『左伝』桓公二年に、師服が言うには、「天子は国を建て、諸侯は家を立て、卿は側室を置き、大夫は貳宗を持ち、士は隷子弟を持ち、庶人・工・商はそれぞれ分親を持つ」とあります。杜預は注して、「嫡子が小宗となり、次の者が貳宗となって、互いに輔け合う。士は身分が低いので、自分の子弟を僕隷とする。庶人にはもはや尊卑がなく、親疎で区別する」と言っています。)そのようにして、一家に属し、学びつつ耕し、またその婚姻もさせ、永く宗家を輔け支えさせるべきです。そうすれば、子孫は自然に繁栄して、血統を絶やす心配がありません。この法を推し進めて、養子を禁じる官の命令が出てほしいとも思いますが、ここではひとまず措いて論じません。(水戸の豊田彦次郎も、かつてこの説を述べました。)ただ、志ある士が互いに相談して、私にこの法を行い、世人にその便利なことを悟らせたいのです。世人はしばしば栄達や利益を慕って、親しい情義を顧みず、弟や二男・三男があれば、これを奇貨として、他家の多くの禄を取ろうとします。弟の席次が兄より高く、子の禄が父より厚いことが習いとなって当たり前になり、少しも怪しまないばかりか、自慢して計略がうまくいったとさえ思います。これが目の前の小さな利に惑って、遠い見通しも大きな計画もないことは、論を待ちません。もし官命でこれを行うとなると、別におのずから良い計がありますが、これもここでは論じません。世人はまた常に言います。「小禄で多くの子弟を育てるのは難儀で、早く他家へ分け出さなければやっていけない」と。この事は、やむを得ないことのようでいて、実は大いに違います。今、きわめて小禄で家内十数人を育てる者がありますが、それでも餓死していません。また大禄でわずか三、四人を育てながら貧窮を憂える者もあります。思うに、士の貧富は、禄の大小や人数の多少だけによるのではありません。その原因は非常に多方面にわたります。要するに、制度を立てることの得失によるだけです。おおよそ男子で二十歳以上、六七十歳以内で、
解説
この章句が説くこと
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『武家家訓集』黒田如水教諭「子の傅をよく撰べ」一子の傅とする士の人物をよく撰ぶべし、其子細は幼少のときより、彼傅日夜付添ひ諸事を育教る故に其子平生の行跡大形傅に似するものなり、外貌のみに非ず、後には心さま迄も傅に似するものなれば大事の儀なり、此故に傅とすべきとおもふ士をば幾重にも吟味してとくと心底を見定、第一思慮有て心正直に僞なく放逸ならずして一筋に忠有ものを付置べし、但其子の生れ付に依て傅に付る者のかたきは差別有べきなり、其外付置士ともゝ此心得有べし、扨又かの傅にする者をば主人ねんごろにあひしらひ位の付樣にしてよく仕ひ樣輕くして位付ざる時は、其子心安くあひしらひ、侮る心あるによりて後には傅をないがしろにして諫言しても聞入ず、行跡不改ものなれば大事の儀なり、凡大名の子は生れ出るより平生安樂に育、難儀を見ざるゆへ下々の辛苦を不知、此故に人の仕樣あらく下の困みを知らずして人を不憐上一人の故に多くの人民をなやます事多し、初め小身にして次第に立身し後に大身に成てさへ無道なれば其時々の勢にまかせて小身なる時の難儀不自由を忘て末のいたみをも忘るもの成に、まして大名の子に生れては其心かしこけれども下々の苦しみ難儀をかつて不知ものなれば、能々此心得なくては諸士又は民百姓に至までつかれ困しみ難儀に及ぶものなり深く思慮すべき事なり、
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『新書』匈奴此をして其の居処楽虞し、囷京の畜、畜は皆な其の故王に過ぎ、慮るに其の単于に出づる或いは、時時此を賜いて家と為すのみ。匈奴の一国心を傾けて冀い、人人忣忣として其の後れて来至するを惟れ恐る、将に此を以て其の腹を壊らんとす、一餌なり。来降する者に於いては、上必ず時時にして召幸する所有り、拊循して後に官に入るを得。夫れ胡の大人は親しみ難し、若し上、胡の嬰児に於いて貴人の子の好く愛す可き者を召さば、上必ず召幸すること大数十人、此が為に繍衣好閼し、且つ出ずれば則ち従い、居れば則ち更ごも侍す。上即ち胡人を饗する、大觳抵する、胡使を客する、力士、武士固より近く旁に侍し、胡の嬰児は側に近侍するを得、故に貴人更ごも進みて酒を佐くるを前に得、上乃ち幸いに自ら此の薄を御し、酒銭を付せしめ、時の人之に偶す。間を為せば則ち繍衣を出だし、帯服賓餘を具え、時に以て之に賜う。上即ち幸いに胡の嬰児を拊し、擣遒し、之を戯弄し、乃ち炙を授けて幸いに自ら之を啗らい、好衣を出だし、閑にして且つ自ら之を贛う。上起つや、胡の嬰児或いは前し或いは後し、胡の貴人既に酒を奉ずるを得て、出ずれば則ち衣を服し綬を佩び、貴人にして前に立つ、数人をして此を得て居らしむるのみ。
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史記 伯夷列伝夫れ学ぶ者には載籍(書籍)極めて博きも、猶ほ信を六芸に考ふべし。詩・書は缺くると雖も、然れども虞・夏の文は知る可きなり。尭の将に位を遜らんとするや、虞舜に譲り、舜・禹の間は、岳牧咸な薦めて、乃ち之を位に試み、職を典ること数十年、功用既に興り、然る後に政を授く。天下は重器たる、王者の大統たる、天下を伝ふるの斯くの如く之れ難きを示せるなり。而るに説く者は曰く、尭、天下を許由に譲るも、許由は受けず、之を恥ぢて逃げ隠る。夏の時に及びて、卞随・務光なる者有り。此れ何を以てか称す。太史公曰く、余、箕山に登りしに、其の上に蓋し許由の冢有り、と云ふ。孔子、古の仁聖賢人を序列して、呉の太伯・伯夷の倫の如きは詳らかにす。余以へらく、聞く所の由・光の義は至高なるに、其の文辞の少しくも概見せざるは、何ぞや。
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『弘道館記述義』・士民・君主と世継ぎから始める教育の順序又其の本を論ずれば、則ち必ず人君を薫陶し世子を輔導するに始まる。歴く西土歴代の制を観るに、夏殷の礼は、孔子既に文献足らず徴するに足らずと歎ず、則ち後世の得て詳らかにすべき所に非ず。秦漢以降の郡県の政も亦封建の治に用ふべからず。独り周家の制は頗る今日に合ひ、又幸ひに遺経の徴すべき有り。則ち西土の道に資る者、之を舎きて何をか述べん。周の教へを設くる、其の制甚だ備はる。司徒の属は民に徳行道芸を教へ、其の賢者能者を興す。而して師保の職は門闈の学を掌り、咫尺君の告箴諫悪す。又徳行道芸を以て国子を教養す。虞書に曰く、夔に命じて楽を典り冑子を教へしむと。冑子は即ち国子なり。此に由りて之を観れば、国子を教ふるを急にするは、独り周家のみ然るに非ず。我が公の館を設くる、其の意に倣ふ。乃ち正庁の奥に就きて一室を営み、扁して至善と曰ひ、以て読書燕息の所と為す。教授提挙の府を其の傍に設け、凡そ国の貴遊の子弟其の間に周旋す。又黌舎に就きて別に一寮を設け、凡そ巨室の適子及び左右近臣の少壮者を寄宿せしめ、艱苦を諳んじ道芸を講じ、以て才徳を陶冶せしむ。又居学及び講習の寮を設け、闔国の子弟各序を以て業に就き、敢へて怠惰せず。嗚呼後嗣の君は公の志を継ぎ、克く俊徳を明らかにし以て至善の地に止まれ。其の政を任ずる者は能く周家の法を酌み、冑子の教へを忽にせざれ。而して其の学ぶ者は則ち小と無く大と無く、志を立て学を講じ、徳行道芸、或いは賢に或いは能にして、其の泯然たる者を変じ、以て文質彬彬たる君子と為さば、則ち庶はくは心を労し人を治むるの職を曠しくせざらん。
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『智囊』遠猶・商高宗商の高宗、太子たりし時、其の父小乙、嘗て久しく民間に居らしめ、小民と出入して事を同じくし、以て其の情を知らしむ。〔馮述評〕太祖は太子を教諭するに、必ず命じて備に農家を歴せしめ、その居処・服食・器用を観て、農の労苦を知らしむ。洪武の末、秀才を選び、春坊の官に随いて班を分けて入直し、前に近づきて民間の利害等の事を説かしむ。成祖は北京を巡行するに、二皇長孫をして村落を周行せしめ、農桑の事を歴観せしむ。教諭する者は宜しく以て法と為すべし。
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『智囊』辯才・觸龍左師曰く、「今より三世以前、趙王の子孫の侯と為る者に至るまで、其の継ぎて在る者有るか」。曰く、「有ること無し」。曰く、「此れ近き者は禍身に及び、遠き者は其の子孫に及ぶ。豈に人主の子、侯なれば則ち不善ならんや。位尊くして功無く、奉厚くして労無く、而して重器を挟むこと多ければなり。今、媼は長安の位を尊くし、封ずるに膏腴の地を以てし、多く之に重器を与えて、今功を趙に有らしむるに及ばず。一旦山陵崩ぜば、長安君は何を以て自ら趙に托せんや」。太后曰く、「諾。君の使する所に恣にせよ」。是に於いて長安君の為に車百乗を約し、斉に質たらしむ。斉の師乃ち出で、秦の師退く。

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