武教講録 / 燕居・備えの点検と学びの年月を考える
只武義の二字を眞切に心に留めば萬弊自ら除き、大裨益を得るに至らん、武器を閲するは武士の一要務なり、甲冑ありても纖絲は切れ、鐵砲ありても玉藥は虛く、槍刀は多く具れども溢鏽して用をなさず、券狀は多く積たれども軍用の正金は貯ぬ類、皆是平日武器を閲せざるの過なり、此三事皆楮墨の空談に非ず、宜しく逐一に點檢工夫を加ふべし、武士たる者明君に報ずる所以、斯の如くにして足れりと云には非ず、然ども、燕居の士是を捨てば、明君に報ずる所以、別に一事あるとなし、至四十爲强仕之年と云と、禮記內則の制に據れば、二十而冠す、是より前六年九年十三年と各敎學するの品節あり、已に冠するに至ては專ら博學を勸め、未だ敢て人に敎へず、三十に至り始て室ありて家事を治む、然ども猶又博學を勸め、朋友互に切磋し志を擧て相示す、然る後、四十に至り始て仕ふるなり、然れば、大凡十歲前後より四十歲比迄三十餘年中學問を勸む、而して其最も自ら勵むとは中十年にあるなり、(二十より三十迄の間なり)而して又仕て優なれば學ぶの訓あり、說苑に載す、甯越の友人の曰く、學三十年則可以達矣と、蓋し內則の意也、又班固が志に、古者八歲入小學、十五入大學、又た三年而通一藝、三十而五經立と云も相照して考ふべし、
新字:只武義の二字を真切に心に留めば万弊自ら除き、大裨益を得るに至らん、武器を閲するは武士の一要務なり、甲冑ありても繊糸は切れ、鉄砲ありても玉薬は虚く、槍刀は多く具れども溢鏽して用をなさず、券状は多く積たれども軍用の正金は貯ぬ類、皆是平日武器を閲せざるの過なり、此三事皆楮墨の空談に非ず、宜しく逐一に点検工夫を加ふべし、武士たる者明君に報ずる所以、斯の如くにして足れりと云には非ず、然ども、燕居の士是を捨てば、明君に報ずる所以、別に一事あるとなし、至四十為強仕之年と云と、礼記内則の制に拠れば、二十而冠す、是より前六年九年十三年と各教学するの品節あり、已に冠するに至ては専ら博学を勧め、未だ敢て人に教へず、三十に至り始て室ありて家事を治む、然ども猶又博学を勧め、朋友互に切磋し志を挙て相示す、然る後、四十に至り始て仕ふるなり、然れば、大凡十歳前後より四十歳比迄三十余年中学問を勧む、而して其最も自ら励むとは中十年にあるなり、(二十より三十迄の間なり)而して又仕て優なれば学ぶの訓あり、説苑に載す、甯越の友人の曰く、学三十年則可以達矣と、蓋し内則の意也、又班固が志に、古者八歳入小学、十五入大学、又た三年而通一芸、三十而五経立と云も相照して考ふべし、
書き下し
只武義の二字を眞切に心に留めば萬弊自ら除き、大裨益を得るに至らん、武器を閲するは武士の一要務なり、甲冑ありても纖絲は切れ、鐵砲ありても玉藥は虛く、槍刀は多く具れども溢鏽して用をなさず、券狀は多く積たれども軍用の正金は貯ぬ類、皆是平日武器を閲せざるの過なり、此三事皆楮墨の空談に非ず、宜しく逐一に點檢工夫を加ふべし、武士たる者明君に報ずる所以、斯の如くにして足れりと云には非ず、然ども、燕居の士是を捨てば、明君に報ずる所以、別に一事あるとなし、至四十爲强仕之年と云と、禮記內則の制に據れば、二十而冠す、是より前六年九年十三年と各敎學するの品節あり、已に冠するに至ては專ら博學を勸め、未だ敢て人に敎へず、三十に至り始て室ありて家事を治む、然ども猶又博學を勸め、朋友互に切磋し志を擧て相示す、然る後、四十に至り始て仕ふるなり、然れば、大凡十歲前後より四十歲比迄三十餘年中學問を勸む、而して其最も自ら勵むとは中十年にあるなり、(二十より三十迄の間なり)而して又仕て優なれば學ぶの訓あり、說苑に載す、甯越の友人の曰く、學三十年則可以達矣と、蓋し內則の意也、又班固が志に、古者八歲入小學、十五入大學、又た三年而通一藝、三十而五經立と云も相照して考ふべし、
現代語訳
ただ武義の二字を真剣に心に留めれば、あらゆる弊害は自然に除かれ、大きな益を得るでしょう。武器を点検することは武士の一つの要務です。甲冑があっても細い糸は切れ、鉄砲があっても弾薬は空しく、槍や刀は多く揃えても錆びて用をなさず、証文は多く積んであっても軍用の正金は蓄えていない、といった類は、みな平素武器を点検しない過ちです。この三事はみな文字の上の空論ではありません。一つ一つ点検し工夫を加えるべきです。武士が明君に報いるゆえんは、このようにすれば足りるというわけではありません。しかし、閑居の士がこれを捨てれば、明君に報いるべき道は、ほかにありません。「四十を強仕の年とする」というのは、『礼記』内則の制度によれば、二十で冠をつけ、これより前は六年、九年、十三年と、それぞれ教え学ぶ段階があります。すでに冠をつけたあとは、ひたすら博く学ぶことを勧め、まだあえて人に教えません。三十になって初めて家室を持ち家事を治めます。それでもなお博学を勧め、朋友が互いに切磋し、志を挙げて示し合います。その後、四十になって初めて仕えるのです。すると、おおよそ十歳前後から四十歳頃まで、三十年余りの間、学問を勧めます。そして最も自ら励むべきは中の十年(二十から三十までの間)にあります。また、仕えて余力があればさらに学ぶという訓があり、『説苑』に載っています。甯越の友人が言うには、「学ぶこと三十年なら、達することができる」と。思うに内則の意です。また班固の『志』に、昔は八歳で小学に入り、十五で大学に入り、また三年で一芸に通じ、三十で五経が立つ、とあるのも、照らし合わせて考えるべきです。
解説
この章句が説くこと
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『講孟余話』萬章下 首章然れども是れ吾が徒小人の知行偏廃の弊を言ふのみ。其の実は知にして行を廃するは真の知に非ず、行にして知を廃するは実の行に非ず。故に知行二つにして一つ、而して先後亦相待ちて済すことあるなり。抑々伯夷・伊尹・柳下恵の力ありて巧を闕くと云ふ者は、浅近の論に非ず。孔子の巧力倶に全きを以て是に比して、初めて其の少しき闕あるを見るのみ。孔門の諸子、顔淵・閔子・冉牛の「体を具へて微なる」如き、巧にして力足らずと言ふべし。子夏・子游・子張の「一体を具ふる」如き、力ありて巧足らずと言ふべし。後の道を学ぶ者、孔子を以て宗とすれば、巧力倶に至り、知行兼ね進むべきは勿論なれども、前輩を論じ及び人材を育する如きは、妄りに是を以て衆人を律することなかれ。人各々能あり不能あり。
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『春秋左氏伝』襄公三十年 王子必ず免れず裨灶之を指して曰く、「猶ほ以て歲を終ふべし。歲此の次に及ばざるのみ」と。其の亡ぶるに及びてや、歲は娵訾の口に在り。其の明年、乃ち降婁に及ぶ。僕展伯有に從ひ、之と皆死す。羽頡出でて晉に奔り、任の大夫と為る。雞澤の會に、鄭の樂成楚に奔り、遂に晉に適く。羽頡之に因り、之と比して趙文子に事へ、鄭を伐つの說を言ふ。宋の盟の故を以て、可かず。子皮公孫鉏を以て馬師と為す。楚の公子圍大司馬蒍掩を殺して其の室を取る。申無宇曰く、「王子必ず免れざらん。善人は國の主なり。王子楚國に相として、將に善を是れ封(つちか)ふべし。殖して之を虐ぐるは、是れ國に禍するなり。且つ司馬は令尹の偏にして、王の四體なり。民の主を絕ち、身の偏を去り、王の體を艾りて、以て其の國に禍す。不祥焉より大なるは無し。何を以てか免るるを得ん」と。宋の災の為の故に、諸侯の大夫會し、以て宋の財を歸さんことを謀る。
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『政談』官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事地かたには吟味役と云ふものありて将のやうなる者なれとも助なし、頭大勢なり、町奉行は助も允も尽く内与力と云ふものを家来に拵へて取捌かすること宜しからさることなり、寺社奉行は全く家来はかりを使ふ故、役替れは皆新規になりてものになれす、御奏者は家来を殿中へ呼ひてをし合なと云ふやう成ることをさするたくひ宜しからさることなり、御老中には若老中すけのやうなるものにて祐筆の組頭なそさんにもあたるへけれとも、しやうのやうなるものなくてこと足らす、若老中にも亦御旗本の支配をする所勤め各別なり、御老中若老中寺社奉行なとは大名にて家来を召しつかふて用ひ定る様なれとも、公儀の御用に家来をなれさすること詮なし、あたら御旗本を箇様のことに召し仕はれす候故、御旗本の者共に才智つかす、特に大名はものことに下の情に疎きものなり、学ても平人のことく得せぬものなり、されとも此等の御役は皆禄の相応有りて仰せ付けらるゝことなれは平人に仰せ付けられかたし、何れも御旗本の学問も有り才智あるものを、その下役にして使ひ立ては夫より外の役に仰せ付けらるゝにも事もなれ、又才智のほとも知れて宜かるへし、兎角に何の役にも頭役添役下役留役と云ふものを拵へ置かは諸事の為め宜かるへきなり、
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