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武教講録 / 夙起夜寐・常に覚めた心で官事に当たる人

是より官事を處する務めて人後に落ざらんとを志すと云へり、余も亦明倫館再興の事に因て、初て翁を知る、書生多く翁の大躰に通せずして俗習多きを譏る、然ども余翁の言論を見るに、動すれば即ち古義に合ふ、且其事を處して精勵なる如き、今世の吏余未だ其比を見ず、自ら云ふ、人と期して未だ嘗て人に後れず、大氏人に先つこと半時許なり、官府に登る亦未だ嘗て人に後れず、壯歲以來夜臥未だ嘗て二時に過ぎず、即ち起て事を處す、事なければ必ず一事を假設して是を思ふと、余辛亥の歲、東遊公駕に從ひ翁と同行す、翁毎夜宿に着き多くは官事を理す、事畢り一睡し、即ち起て裝を束ね坐睡するのみ、翁常に云ふ、武士たる者は人の爲めに寢首を搔れては澄ぬこと也と、是を以て熟寢の時と云ども、一呼必ず醒む、蓋し翁心性常々惺々、故に能く斯の如し、他なし是を以て官事に當るのみ、然ども、是獨り官戒のみに非ず、武士道の鍊磨亦實に玆にあり、令安士卒之躰の事、語類卷十二、君道十二、治談下、主僕之居相遠の條下に論ず、云く、或人師の居所下人の居所を遠く作れるとを尋ぬ、師曰、人必ず屈伸あり、屈伸するに節を失ときは草臥まじき時に勞るゝ者也、且下を見と賢人聖人を以すべからず、故に主として臣の晝夜となく勤んとを求め、作法の正しきを守り愼まんとを求むるは、君臣の情相背の所以也、特に下として上に狎るゝとあれば、其法令を輕んじ、眞の時恭敬の心薄し、是を以予が茅屋の間、膝を容るゝにたれる所にも、下人の居所を遠くして其志を寛かにす、而して敎べき戒べきとをば不怠して糺明す、但彼閑居して不善をなさんには、遠きに利あるべければ、節を計て度々改め糺明すなりと、先師の事々心を用ゆるの親切斯の如し、後學宜しく此意を奉承すべし、

新字:是より官事を処する務めて人後に落ざらんとを志すと云へり、余も亦明倫館再興の事に因て、初て翁を知る、書生多く翁の大体に通せずして俗習多きを譏る、然ども余翁の言論を見るに、動すれば即ち古義に合ふ、且其事を処して精励なる如き、今世の吏余未だ其比を見ず、自ら云ふ、人と期して未だ嘗て人に後れず、大氏人に先つこと半時許なり、官府に登る亦未だ嘗て人に後れず、壮歳以来夜臥未だ嘗て二時に過ぎず、即ち起て事を処す、事なければ必ず一事を仮設して是を思ふと、余辛亥の歳、東遊公駕に従ひ翁と同行す、翁毎夜宿に着き多くは官事を理す、事畢り一睡し、即ち起て装を束ね坐睡するのみ、翁常に云ふ、武士たる者は人の為めに寝首を搔れては澄ぬこと也と、是を以て熟寝の時と云ども、一呼必ず醒む、蓋し翁心性常々惺々、故に能く斯の如し、他なし是を以て官事に当るのみ、然ども、是独り官戒のみに非ず、武士道の錬磨亦実に玆にあり、令安士卒之体の事、語類巻十二、君道十二、治談下、主僕之居相遠の条下に論ず、云く、或人師の居所下人の居所を遠く作れるとを尋ぬ、師曰、人必ず屈伸あり、屈伸するに節を失ときは草臥まじき時に労るゝ者也、且下を見と賢人聖人を以すべからず、故に主として臣の昼夜となく勤んとを求め、作法の正しきを守り慎まんとを求むるは、君臣の情相背の所以也、特に下として上に狎るゝとあれば、其法令を軽んじ、真の時恭敬の心薄し、是を以予が茅屋の間、膝を容るゝにたれる所にも、下人の居所を遠くして其志を寛かにす、而して教べき戒べきとをば不怠して糺明す、但彼閑居して不善をなさんには、遠きに利あるべければ、節を計て度々改め糺明すなりと、先師の事々心を用ゆるの親切斯の如し、後学宜しく此意を奉承すべし、

書き下し

是より官事を處する務めて人後に落ざらんとを志すと云へり、余も亦明倫館再興の事に因て、初て翁を知る、書生多く翁の大躰に通せずして俗習多きを譏る、然ども余翁の言論を見るに、動すれば即ち古義に合ふ、且其事を處して精勵なる如き、今世の吏余未だ其比を見ず、自ら云ふ、人と期して未だ嘗て人に後れず、大氏人に先つこと半時許なり、官府に登る亦未だ嘗て人に後れず、壯歲以來夜臥未だ嘗て二時に過ぎず、即ち起て事を處す、事なければ必ず一事を假設して是を思ふと、余辛亥の歲、東遊公駕に從ひ翁と同行す、翁毎夜宿に着き多くは官事を理す、事畢り一睡し、即ち起て裝を束ね坐睡するのみ、翁常に云ふ、武士たる者は人の爲めに寢首を搔れては澄ぬこと也と、是を以て熟寢の時と云ども、一呼必ず醒む、蓋し翁心性常々惺々、故に能く斯の如し、他なし是を以て官事に當るのみ、然ども、是獨り官戒のみに非ず、武士道の鍊磨亦實に玆にあり、令安士卒之躰の事、語類卷十二、君道十二、治談下、主僕之居相遠の條下に論ず、云く、或人師の居所下人の居所を遠く作れるとを尋ぬ、師曰、人必ず屈伸あり、屈伸するに節を失ときは草臥まじき時に勞るゝ者也、且下を見と賢人聖人を以すべからず、故に主として臣の晝夜となく勤んとを求め、作法の正しきを守り愼まんとを求むるは、君臣の情相背の所以也、特に下として上に狎るゝとあれば、其法令を輕んじ、眞の時恭敬の心薄し、是を以予が茅屋の間、膝を容るゝにたれる所にも、下人の居所を遠くして其志を寛かにす、而して敎べき戒べきとをば不怠して糺明す、但彼閑居して不善をなさんには、遠きに利あるべければ、節を計て度々改め糺明すなりと、先師の事々心を用ゆるの親切斯の如し、後學宜しく此意を奉承すべし、

現代語訳

これ以来、官事を処理するのに、務めて人に遅れないよう志したと言いました。私もまた明倫館再興のことで、初めて翁を知りました。書生の多くは翁の大体に通じず、俗習が多いと謗りました。しかし私が翁の言論を見ると、ともすれば古義に合い、またその事を処理して精励するさまは、今の世の役人でまだ比べられる者を見ません。翁は自ら言いました。人と約束して、まだ人に後れたことがない。おおむね人に先んじること半時ばかりである。官府に登るのもまた人に後れたことがない。壮年以来、夜に寝るのは二時(約四時間)を過ぎたことがなく、すぐ起きて事を処理する。事がなければ、必ず一事を仮に設けてこれを思う、と。私は辛亥の年、東へ遊ぶ殿様の駕に従って翁と同行しました。翁は毎夜宿に着くと、多くは官事を処理し、事が終われば一睡し、すぐ起きて身支度を整え、座ったまま居眠りするだけでした。翁は常に「武士たる者は、人に寝首を搔かれては済まないことだ」と言い、それで熟睡の時でも、一呼びで必ず目覚めました。思うに翁の心性は常にはっきりと覚めているので、このようにできるのです。ほかでもない、これをもって官事に当たるのみです。しかし、これはひとり役人の戒めだけではなく、武士道の鍛錬もまさにここにあります。士卒を安んじさせる体の事については、『語類』巻十二、君道十二、治談下の「主僕の居、相遠し」の条で論じています。そこには、ある人が、師が居所と下人の居所を遠く作っているのを尋ねた。師は言った。人にはかならず屈伸がある。屈伸に節を失うと、疲れてはならないときに疲れるものである。また下の者を見るのに、賢人聖人を基準にしてはならない。だから主人として、臣が昼夜なく勤めることを求め、作法の正しさを守り慎むことを求めるのは、君臣の情が背き合うもとである。特に下の者が上の者に馴れ馴れしくすると、その法令を軽んじ、いざというとき恭敬の心が薄くなる。このゆえに、私のあばら屋の、膝を入れるだけの場所でも、下人の居所は遠くして、その志をのびやかにさせる。しかも教えるべきこと、戒めるべきことは怠らず糺明する。ただ、彼らが閑居して不善をなすなら、遠いのが都合がよいので、節度を計って度々改め糺明する、とあります。先師が事ごとに心を用いる親切さはこのとおりです。後の学ぶ者は、この意を受け継ぐべきです。

解説

中谷翁は約束に人より半時早く着き、睡眠も短く、事がなければ一事を仮に設けて考えるほど、常に気を覚ましていた人として描かれます。さらに山鹿素行は、部下に昼夜の緊張を強いず、屈伸の節度を守りつつ教えと戒めは怠らないと述べます。現代の管理職も、自分が先に動く姿勢と、部下に休息と裁量の余地を与える配慮を両立させることが大切です。疲れない働かせ方と、締めるべき点を締める誠実さの両方が、長続きする組織を作ります。

この章句が説くこと

武教講録吉田松陰夙起夜寐時間厳守備え部下への配慮

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