武訓 / 上・第17段
日本の兵術を學んで、文學なき人は、道理にうとし。人に敎ふるに、日本の武道は、儒者のごとく、仁義忠信の道を用ふべからず、僞りたばからざれば、勝利を得がたしといふ。又曰、夫、兵は、功を立つるにあり。もろこしにては、魏の曹操のごとく、日本にては、足利尊氏のごとき人は、仁義にそむきて、人の國をうばひたれども、武將の本意なり。もろこしの諸葛孔明のごとく、日本の楠正成のごときは、忠義あれども、功を立つることならず。是、武將の本意にあらず。兵は詭道なり。時の勢によりては、わが身方に對しても、いつはりて表裏を行ひ、人の功をうばひ、或は、國をみだして、逆にしてとるも、兵術においては害なし。是日本の武道なり。もろこしの道を以ては、日本の武道は行ひがたし。日本は武國なれば、もろこしの、正直にして手ぬるき風俗にては、功を成しがたくして、日本の風俗にはあはず。ひずかしくすゝどくて、人のなしたる功名をもうばひて、わが功名とし、人の取りたる首をもうばひて、わが勇とするが、日本の武道なりなどいひて、秘密して人にをしふ。
新字:日本の兵術を学んで、文学なき人は、道理にうとし。人に教ふるに、日本の武道は、儒者のごとく、仁義忠信の道を用ふべからず、偽りたばからざれば、勝利を得がたしといふ。又曰、夫、兵は、功を立つるにあり。もろこしにては、魏の曹操のごとく、日本にては、足利尊氏のごとき人は、仁義にそむきて、人の国をうばひたれども、武将の本意なり。もろこしの諸葛孔明のごとく、日本の楠正成のごときは、忠義あれども、功を立つることならず。是、武将の本意にあらず。兵は詭道なり。時の勢によりては、わが身方に対しても、いつはりて表裏を行ひ、人の功をうばひ、或は、国をみだして、逆にしてとるも、兵術においては害なし。是日本の武道なり。もろこしの道を以ては、日本の武道は行ひがたし。日本は武国なれば、もろこしの、正直にして手ぬるき風俗にては、功を成しがたくして、日本の風俗にはあはず。ひずかしくすゝどくて、人のなしたる功名をもうばひて、わが功名とし、人の取りたる首をもうばひて、わが勇とするが、日本の武道なりなどいひて、秘密して人にをしふ。
書き下し
日本の兵術を學んで、文學なき人は、道理にうとし。人に敎ふるに、日本の武道は、儒者のごとく、仁義忠信の道を用ふべからず、僞りたばからざれば、勝利を得がたしといふ。又曰、夫、兵は、功を立つるにあり。もろこしにては、魏の曹操のごとく、日本にては、足利尊氏のごとき人は、仁義にそむきて、人の國をうばひたれども、武將の本意なり。もろこしの諸葛孔明のごとく、日本の楠正成のごときは、忠義あれども、功を立つることならず。是、武將の本意にあらず。兵は詭道なり。時の勢によりては、わが身方に對しても、いつはりて表裏を行ひ、人の功をうばひ、或は、國をみだして、逆にしてとるも、兵術においては害なし。是日本の武道なり。もろこしの道を以ては、日本の武道は行ひがたし。日本は武國なれば、もろこしの、正直にして手ぬるき風俗にては、功を成しがたくして、日本の風俗にはあはず。ひずかしくすゝどくて、人のなしたる功名をもうばひて、わが功名とし、人の取りたる首をもうばひて、わが勇とするが、日本の武道なりなどいひて、秘密して人にをしふ。
現代語訳
日本の兵術を学んで、文学のない人は、道理にうといものです。人に教えて言います。日本の武道は、儒者のように仁義忠信の道を用いてはならない、偽りたばからなければ勝利を得がたい、と。また言います。そもそも兵は、功を立てるところにある。中国では魏の曹操のように、日本では足利尊氏のような人は、仁義にそむいて人の国を奪ったけれども、武将の本意である。中国の諸葛孔明のように、日本の楠正成のような人は、忠義はあっても功を立てることができない。これは武将の本意ではない。兵は詭道である。時の勢いによっては、味方に対しても偽って表裏を行い、人の功を奪い、あるいは国を乱して、逆らって取ることも、兵術においては害がない。これが日本の武道である。中国の道では、日本の武道は行いがたい。日本は武の国であるから、中国の正直で手ぬるい風俗では功をなしがたく、日本の風俗に合わない。ずる賢くすばしこくて、人のなした功名をも奪って自分の功名とし、人の取った首をも奪って自分の勇とするのが、日本の武道だ、などと言って、秘密にして人に教えます。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・始計篇能くしてこれを不能と示し、用いてこれを不用と示し、近くしてこれを遠しと示し、遠くしてこれを近しと示す。
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孫子・行軍篇兵怒りて相迎え、久しくして合わず、又相去らざるは、必ず謹んでこれを察すべし。
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孫子・始計篇利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らしめ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離す。
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孫子・始計篇兵とは詭道なり。
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『駿台雑話』兵は詭道(四)先年人のいひしは、ある兵家の説とて、孫子の兵者詭道なりとあるを、兵は詭るも道なりとよむべし、兵は詭道なりとはよむべからずとぞ、翁きゝて一笑を發しき、是は兵を詭道といふを嫌て、兵はもと正道なれども、時としてはいつはるも道なりといふにやあらん、詭字は詐僞の二字と倭訓同じけれども、字義に差別あり、たゞ眞手になく、營格をたがへたる道を詭道とはいふなり、されば孫子も能而示之不能用而示之不用といはずや、よくしてよくすと見せ、用て用ると見せては、いかで敵を料り勝ことを制すべき、よりて兵は眞手になく、常法に引ちがへて行ふ道なりといふべし、すぐに詐僞の道とはいふべからず、然共此筋を今日の常に出せば、詭遇して獲禽の心になりて、やがて詐僞に陷るべし、そこを孫武さすがの明者にて慥に見つけし程に、十三篇の初におゐて兵は詭道なりとはいひしぞかし、詭道なれば常道にあらず、常道にあらずしていかで國家を治るの道とすべき、况や當代の兵家に相傳るは、皆兵の末事なるをや、或は城とり、或は軍のそなへ、又は古戰の跡を僉議する迄にて、孫子の書をよむ人稀なり、たま〱よむ人ありても、文字にくらき故に詭道二字の義にさへ通ぜず、何とて孫子のふかき意を得べきや、さるによりて其説を聞に、多くは臆見に出て相違したる事也、無知妄作といふべし
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