武家拾要記抄録 / 明倫篇・天子に関わる称号と文書の呼び名
一帝王の御事は一天の主として、聖王寶輪聖主大宅內裏禁中今上主上當今陛下宸儀鳳闕朝廷など申奉るは、皆天子御一人の御事也、諸人共に詣るを參內といふ、天子の出御を、遠近ともに行幸と申也、位山大內山紫庭百敷大宮九重雲井など申も皆禁闕也、玉體龍顏宸襟叡覽叡聞叡旨と申も天子の御事に限れり、又仰せを詔書鳳詔綸旨綸言綸命宣命宣旨勅定勅裁など申す、物を申上るを奏聞、尋ね下さるゝを勅問と申す、御返答を勅答と申す、又勅許勅封勅願勅判勅點など申す事あり、御手跡を勅筆宸筆宸翰など申す、天子の御位すべらせ給ひ、太上天皇の尊號ありて、院の御所に渡らせ給ふを、上皇仙洞仙院と申奉る、又和歌の詞に、藐姑射の山綠の洞などいへるも院の御所を申す、院へ諸人の詣るを院參といふ、出御を御幸と申、政務に付ての勅定を院宣と申、宮門跡の仰を令旨と申、攝家淸華のを御書、公方のを御內書、管領のを御敎書と申、一勅を蒙り征夷大將軍の出陣を征伐といふ、帝王の治め給ふを追討と云、鎭守府の將軍の退治に出陣あるを進發と云、征夷將軍の自分の出陣あるを發向と云、綸旨院宣に日の旗を指添て、遠國へ退治にむかふを追伐といふ、
新字:一帝王の御事は一天の主として、聖王宝輪聖主大宅内裏禁中今上主上当今陛下宸儀鳳闕朝廷など申奉るは、皆天子御一人の御事也、諸人共に詣るを参内といふ、天子の出御を、遠近ともに行幸と申也、位山大内山紫庭百敷大宮九重雲井など申も皆禁闕也、玉体竜顔宸襟叡覧叡聞叡旨と申も天子の御事に限れり、又仰せを詔書鳳詔綸旨綸言綸命宣命宣旨勅定勅裁など申す、物を申上るを奏聞、尋ね下さるゝを勅問と申す、御返答を勅答と申す、又勅許勅封勅願勅判勅点など申す事あり、御手跡を勅筆宸筆宸翰など申す、天子の御位すべらせ給ひ、太上天皇の尊号ありて、院の御所に渡らせ給ふを、上皇仙洞仙院と申奉る、又和歌の詞に、藐姑射の山緑の洞などいへるも院の御所を申す、院へ諸人の詣るを院参といふ、出御を御幸と申、政務に付ての勅定を院宣と申、宮門跡の仰を令旨と申、摂家清華のを御書、公方のを御内書、管領のを御教書と申、一勅を蒙り征夷大将軍の出陣を征伐といふ、帝王の治め給ふを追討と云、鎮守府の将軍の退治に出陣あるを進発と云、征夷将軍の自分の出陣あるを発向と云、綸旨院宣に日の旗を指添て、遠国へ退治にむかふを追伐といふ、
書き下し
一帝王の御事は一天の主として、聖王寶輪聖主大宅內裏禁中今上主上當今陛下宸儀鳳闕朝廷など申奉るは、皆天子御一人の御事也、諸人共に詣るを參內といふ、天子の出御を、遠近ともに行幸と申也、位山大內山紫庭百敷大宮九重雲井など申も皆禁闕也、玉體龍顏宸襟叡覽叡聞叡旨と申も天子の御事に限れり、又仰せを詔書鳳詔綸旨綸言綸命宣命宣旨勅定勅裁など申す、物を申上るを奏聞、尋ね下さるゝを勅問と申す、御返答を勅答と申す、又勅許勅封勅願勅判勅點など申す事あり、御手跡を勅筆宸筆宸翰など申す、天子の御位すべらせ給ひ、太上天皇の尊號ありて、院の御所に渡らせ給ふを、上皇仙洞仙院と申奉る、又和歌の詞に、藐姑射の山綠の洞などいへるも院の御所を申す、院へ諸人の詣るを院參といふ、出御を御幸と申、政務に付ての勅定を院宣と申、宮門跡の仰を令旨と申、攝家淸華のを御書、公方のを御內書、管領のを御敎書と申、一勅を蒙り征夷大將軍の出陣を征伐といふ、帝王の治め給ふを追討と云、鎭守府の將軍の退治に出陣あるを進發と云、征夷將軍の自分の出陣あるを發向と云、綸旨院宣に日の旗を指添て、遠國へ退治にむかふを追伐といふ、
現代語訳
一つ、帝王のことは、天下の主として、聖王・宝輪・聖主・大宅・内裏・禁中・今上・主上・当今・陛下・宸儀・鳳闕・朝廷などと申し上げるのは、すべて天子お一人のことです。人々がそろって参上することを参内といい、天子のお出ましを、遠近ともに行幸と申します。位山・大内山・紫庭・百敷・大宮・九重・雲井などと申すのも、みな禁闕(宮中)のことです。玉体・龍顔・宸襟・叡覧・叡聞・叡旨と申すのも、天子のことに限ります。また仰せを詔書・鳳詔・綸旨・綸言・綸命・宣命・宣旨・勅定・勅裁などと申します。物を申し上げることを奏聞、お尋ね下さることを勅問、ご返答を勅答といいます。また勅許・勅封・勅願・勅判・勅点などということがあります。お手跡を勅筆・宸筆・宸翰などと申します。天子が位を譲られ、太上天皇の尊号があって、院の御所にいらっしゃるのを、上皇・仙洞・仙院と申し上げます。また和歌の言葉で、藐姑射の山・緑の洞などというのも院の御所を指します。人々が院へ参上することを院参といい、お出ましを御幸と申し、政務についての勅定を院宣と申します。宮門跡の仰せを令旨と申します。摂家・清華のものを御書、公方のものを御内書、管領のものを御教書と申します。勅を受けて征夷大将軍が出陣することを征伐といい、帝王が治められることを追討といいます。鎮守府将軍が退治に出陣することを進発といい、征夷将軍が自分の判断で出陣することを発向といいます。綸旨や院宣に日の旗を添えて、遠国へ退治に向かうことを追伐といいます。
解説

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『墨子』魯問魯陽文君、将に鄭を攻めんとす。子墨子、聞きて之を止め、陽文君に謂いて曰く、「今、魯の四境の内をして、大都、其の小都を攻め、大家、其の小家を伐ち、其の民を殺し、人、其の牛馬狗豕布帛米粟貨財を取らしめば、則ち何若」と。魯陽文君曰く、「魯の四境の内は、皆な寡人の臣なり。今、大都、其の小都を攻め、大家、其の小家を伐ち、之が貨財を奪わば、則ち寡人、必ず将に厚く之を罰せんとす」と。子墨子曰く、「夫れ天の兼ねて天下を有つや、亦た猶お君の四境の内を有つがごときなり。今、兵を舉げて将に以て鄭を攻めんとす。天の誅、其れ至らざらんや」と。魯陽文君曰く、「先生、我が鄭を攻むるを止むるか。我が鄭を攻むるは天の志に順う。鄭人、三世、其の父を殺す。天、誅を加えて、三年、登らざらしむ。我れ将に天の誅を助けんとす」と。子墨子曰く、「鄭人、三世、其の父を殺して、天、誅を加え、三年、登らざらしむ。天の誅、足れり。今、又た兵を舉げて将に以て鄭を攻めんとして、曰く、『吾が鄭を攻むるや、天の志に順う』と。譬えば人、此に有り。其の子、强梁にして不材なり。故に其の父、之を笞つ。其の鄰家の父、木を舉げて之を擊ちて曰く、『吾れ之を擊つや、其の父の志に順う』と。則ち豈に悖らざらんや」と。
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『呻吟語』外篇・治道・位以て其の惡を濟す政を為す者は、行ふを得れば即ち行ふの謂に非ず、行ふ可きに從ひて則ち行ふのみ。行ふを得るの勢ひ有りて、行ふ可きの理に昧ければ、是れ位以て其の惡を濟すなり。君子は之を賊と謂ふ。
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『韓非子』外儲説右上第三十四其の下翎を断てば、則ち必ず人を恃みて食ふ、焉んぞ馴れざるを得んや。夫れ明主の臣を畜ふも亦然り、
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『墨子』尚賢上故に古者、聖王の政を為すや、徳を别ちて賢を尚び、農と工肆の人に在りと雖も、能有れば則ち之を舉げ、髙く之に爵を予え、重く之に祿を予え、之に任ずるに事を以てし、斷じて之に令を予う。曰く、「爵位髙からざれば則ち民敬わず、蓄祿厚からざれば則ち民信ぜず、政令斷ぜざれば則ち民畏れず」と。三者を舉げて之を賢者に授くるは、賢の為に賜うに非ざるなり、其の事の成らんことを欲すればなり。故に是の時に當たりて、徳を以て列に就き、官を以て事に服し、勞を以て賞を殿し、功を量りて祿を分かつ。故に官に常の貴無く、民に終の賤無し。能有れば則ち之を舉げ、能無ければ則ち之を下す。公義を舉げ、私怨を辟く。此れ若の言の謂いなり。