武人訓抄録 / 時と國による兵の違い
一兵の事たる、古と今と別あり、漢と和と異なり、古の兵は農より出、今の兵は士より出、其農より出るものは衆にして麁なり、其士より出るものは寡にして精なり、漢の兵は卒多く、和の兵は士多し、其卒多きものは健にして鈍く、其士多きものは巧にして鋭なり、倶に用る所あり用ひざる所あり、時と國と自然の勢によつてなり、學者兵事を論ぜんと欲せば、まづ時國自然の形勢を察し、而して後これを考ふべし、
新字:一兵の事たる、古と今と別あり、漢と和と異なり、古の兵は農より出、今の兵は士より出、其農より出るものは衆にして麁なり、其士より出るものは寡にして精なり、漢の兵は卒多く、和の兵は士多し、其卒多きものは健にして鈍く、其士多きものは巧にして鋭なり、倶に用る所あり用ひざる所あり、時と国と自然の勢によつてなり、学者兵事を論ぜんと欲せば、まづ時国自然の形勢を察し、而して後これを考ふべし、
書き下し
一兵の事たる、古と今と別あり、漢と和と異なり、古の兵は農より出、今の兵は士より出、其農より出るものは衆にして麁なり、其士より出るものは寡にして精なり、漢の兵は卒多く、和の兵は士多し、其卒多きものは健にして鈍く、其士多きものは巧にして鋭なり、倶に用る所あり用ひざる所あり、時と國と自然の勢によつてなり、學者兵事を論ぜんと欲せば、まづ時國自然の形勢を察し、而して後これを考ふべし、
現代語訳
兵の事は、古と今で別があり、漢と和でも異なります。古の兵は農から出て、今の兵は士から出ます。農から出るものは数が多くて粗く、士から出るものは数が少なくて精です。漢の兵は卒が多く、和の兵は士が多いのです。卒が多いものは健やかで鈍く、士が多いものは巧みで鋭いのです。どちらも用いるところがあり、用いないところがあります。それは時と国と自然の勢いによるのです。学者が兵事を論じようとするなら、まず時と国の自然の形勢を察し、そのうえでこれを考えなさい。
解説
この章句が説くこと
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