武道初心集 / 臣職三
或は其塲を一足も引退かずして。晴なる討死をも遂なん。此義に於ては摩利支尊天も照覽あれ。人にさせては見まじき物をと、口廣くこそいはね。我が心一つに覺悟を極め罷在を。武士の奉公の奧意とは申候。扱右の如く奧意を極むるうへは。我が身も命も我が物に非ずいつ何時主君の御用有べきも難計からは。彌身命を大切にかけ。大食大酒淫欲等の不養生を愼しみ。疊の上の病死をさへも本意と思はず。ましてや喧嘩口論など仕出して友傍輩を打果し。我が身命を失ふ類ひの不忠不義は。深く愼しむべき事に候。其愼の致方は。むざと口をきかぬがよく候。口をきくから起りて口論あり。口論がつのりては必ず雜言あり。武士と武士との出會にて。互ひの雜言に及びて後。無事なる事は。千萬に一つも無之候。去るに依て。最初口論に及ぶ時。其心得を致し。兼て主君へ捧げ置たる身命といふ義を存じ出し。抑へ控へを仕るを忠義の武士共申し。又は分別者共申にて候。初心の武士心得のため仍如件。
新字:或は其塲を一足も引退かずして。晴なる討死をも遂なん。此義に於ては摩利支尊天も照覧あれ。人にさせては見まじき物をと、口広くこそいはね。我が心一つに覚悟を極め罷在を。武士の奉公の奥意とは申候。扱右の如く奥意を極むるうへは。我が身も命も我が物に非ずいつ何時主君の御用有べきも難計からは。弥身命を大切にかけ。大食大酒淫欲等の不養生を慎しみ。畳の上の病死をさへも本意と思はず。ましてや喧嘩口論など仕出して友傍輩を打果し。我が身命を失ふ類ひの不忠不義は。深く慎しむべき事に候。其慎の致方は。むざと口をきかぬがよく候。口をきくから起りて口論あり。口論がつのりては必ず雑言あり。武士と武士との出会にて。互ひの雑言に及びて後。無事なる事は。千万に一つも無之候。去るに依て。最初口論に及ぶ時。其心得を致し。兼て主君へ捧げ置たる身命といふ義を存じ出し。抑へ控へを仕るを忠義の武士共申し。又は分別者共申にて候。初心の武士心得のため仍如件。
書き下し
或は其塲を一足も引退かずして。晴なる討死をも遂なん。此義に於ては摩利支尊天も照覽あれ。人にさせては見まじき物をと、口廣くこそいはね。我が心一つに覺悟を極め罷在を。武士の奉公の奧意とは申候。扱右の如く奧意を極むるうへは。我が身も命も我が物に非ずいつ何時主君の御用有べきも難計からは。彌身命を大切にかけ。大食大酒淫欲等の不養生を愼しみ。疊の上の病死をさへも本意と思はず。ましてや喧嘩口論など仕出して友傍輩を打果し。我が身命を失ふ類ひの不忠不義は。深く愼しむべき事に候。其愼の致方は。むざと口をきかぬがよく候。口をきくから起りて口論あり。口論がつのりては必ず雜言あり。武士と武士との出會にて。互ひの雜言に及びて後。無事なる事は。千萬に一つも無之候。去るに依て。最初口論に及ぶ時。其心得を致し。兼て主君へ捧げ置たる身命といふ義を存じ出し。抑へ控へを仕るを忠義の武士共申し。又は分別者共申にて候。初心の武士心得のため仍如件。
現代語訳
あるいはその場を一足も退かずに、晴れやかな討ち死にを遂げようと思うのです。この義については摩利支尊天もご覧になってください。他人にさせては見まいと、大口をたたいて言うのではなく、わが心一つに覚悟を決めてのぞむのを、武士の奉公の奥義と申します。さて、このように奥義を極めたうえは、わが身も命も自分のものではなく、いつ何時主君の御用があるかも計りがたいのですから、いよいよ身命を大切にかけ、大食・大酒・淫欲などの不養生を慎み、畳の上の病死さえも本意と思わず、ましてや喧嘩や口論などを起こして友人・同僚を討ち果たし、わが身命を失う類の不忠不義は、深く慎むべきです。その慎みの方法は、むやみに口をきかないのがよいのです。口をきくから口論が起こり、口論がつのれば必ず雑言が出ます。武士と武士との出会いで、互いに雑言に及んだあとで、無事に済むことは、千万に一つもありません。したがって、最初に口論に及ぶとき、その心得をして、かねて主君へ捧げておいた身命ということを思い出し、抑え、控えるのを、忠義の武士とも、分別者とも申すのです。初心の武士の心得のために、以上のとおりです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武道初心集』總論(二)儲又死を忘れて油斷致す心より。物に慎しみなく。人の氣に障る事をも云て口論に及び。聞捨に仕りて事濟儀をも。聞答めて物云に仕なし。或は無益なる遊山見物の場所。人込の中といふ遠慮もなく。ありきまはり。ゑしれぬ馬鹿者などにも出逢不慮の喧嘩に及び。身命を果て主君の御名を出し。親兄弟に難儀を懸る事皆常に死を心にあてぬ油斷より起る禍ひに候。死を常に心に當る時は。物をいふも。人の物云返答を致すも。武士の身にては。一言の甲乙を大事と心得るを以て。譯もなき口論などを不仕。勿論むさと致したる場所へは。人が誘ひても行ざるゆへ。不慮の首尾に出合ふべき様も是なく候。爰を以て萬の惡事災難をも遁るゝとは申にて候。貴きも賤しきも。人は死を忘るゝゆゑに。常に過食大酒淫欲等の不養生を致し。脾腎の煩を仕出し。思ひの外なる若死をも致し。たとひ存命にても。何の用に立ざる病者とはなり果候。死を常に心にあつるときは。其身の年も若く。無病息災なりといへども。兼て補養の心得を致し。飲食を節に仕り。色の道をも遠ざけ。たしなみ愼しみ候故に。
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『武道初心集』總論(一)武士たらむものは。正月元日の朝。雜煮の餅を祝ふとて。箸を取初るより。其年の大晦日の夕べに至るまで。日々夜々死を常に心にあつるを以て。本意の第一と仕り候。死をさへ常に心にあて候へば。忠孝の二つの道にも相叶ひ。萬の惡事災難をも遁れ。其身無病息災にして。壽命長久に。剩へ其人柄までもよろしく罷成。其德おほき事に候。其仔細を申に。總じて人間の命をば夕部の露。あしたの霜になぞらへ。隨分はかなき物に致し置候中にも。殊更危きは武士の身命にて候を。人々おのれが心すましに。いつまでも長生を仕る了簡なるに依て。主君へも末永き御奉公。親々への孝養も。末久しき義なりと存ずるから事起りて。主君へも不奉公を仕り。親々への孝行も。疎略には罷成にて候。今日在て明日を知らぬ身命とさへ。覺悟仕り候に於ては。主君の御前へ罷出て御用を承るも。親々の顔を見上るも。是をかぎりと罷成事もやと。存ずる心あひに相成候ゆゑ。主親へ眞實の思ひ入れと罷成らずしてはかなはず候。去に依て。忠孝の二つの道にも相叶ふとは申にて候。
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『武道初心集』忠死(五)家中こぞりて是を惡み候へ共。十人が九人迄も。其者の惡事を申立。公事沙汰に取結び。手を汚さず。舌先の勝負にして。本意を遂べきといふ分別相談の外無之。左候ては。中々內證にて埒明ず。主君の御一門方の御取扱と成り。それより事重く成行。畢竟は公義の御沙汰共不罷成しては不叶候。昔が今に至るまで。大名方の家の仕置を被成衆。公義の御厄介と成り。其事の濟たる上に於て。主人の身上の相立たる例とては無之。角を直すとて牛を殺し。鼠を狩とて祉を燒く喩の如く。主人の御身上は潰し。家中大小の諸奉公人は。皆々流浪の身と成果申候。斯る時。前に申す當家の惡魔。主君の怨敵たる。件の大惡人を執て押へ。胴腹を剜り候とも。又ほ元首を刎捨候共。心の儘に仕澄して埒を明け。我が身は即座に切腹を遂げ相果最に候。然る時は。何の出入公事沙汰と申義も無之。主君の御身上に相障る義も無之。家中の諸人も安堵致し。國家安泰に候。爰を以て殉死には百双倍も優り。忠義勇の三つに相叶ひ。末代の武士の手本共可罷成一品とは申にて候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』臨終(一)武士たらむものは。大小上下に限らず。第一の心掛たしなみと申すは。其身の果際の善惡に止り申候。常々何程口をきゝ。利根才覺に見え候者も。今を限りの時に臨み。前後不覺に取亂し最期惡しく候ては。前方の善行は皆々水に成り。心ある人の下墨に預り。大きに恥かしき事にて候。武士の戰塲に臨みて。武邊手柄の働を仕り。高名を極るも。兼て討死と覺悟を極め置たる上の事にて候。去るに依て。時の運惡しく勝負に仕負。敵に首を取らるゝ時。我名を敵に問れては愷かに姓名を名乘り。莞爾と笑て首をわたし。毛頭もわるびれたる氣色なく。或は外科の療治に叶はぬ程の深手を負ても。正氣さへあれば。番頭。組頭。諸傍輩の閒前にて。愷に物をも申し手負ぶりをたしなみ。尋常に相果候は。武士の正義第一の所に候。爰を以て考へ候得ば。靜謐の時代たり共。武士をたしなむものは。其身老人ならば申すに及ばず。たとひ年若く候ても。大病を受候に於ては。覺悟を極め。
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『武道初心集』儉畜(一)奉公仕る武士は。大身小身に限らず。常に儉約を用ゐて。隨分勝手をすり切不申分別尤に候。但し知行高を取武士の義は。たとひ一度勝手をすり切候ても。早く思案を致しかへて。爰をつめ彼所をちゞめ。諸事に氣を付て簡畧をさへ致候へば。程なく勝手を取直し申義も罷成候は。身上に餘計あるを以ての義に候。小身にて大身の眞似を致し。無用の義に物を入れ。勝手を仕損じ候ては。身上の餘計無之に付。萬事跡ひけになり。何程簡略致し候ても補ひ兼。後々は跡へも先へも行兼る。大すり切と罷成るは必定に候。人々勝手に成るぞ成らぬぞとは申すは內證の義にて。奉公を致す身には。傍輩一列の格合有之。止事を得ざる物入もなくては叶はず。左樣の刻み爲方なければ。種々の才覺手段に及び。云まじき事をもいひ。仕間敷事をも仕りて。生れも付ざる不律義もの。大はつ者の名取を仕るも。畢竟不勝手より起る過失に候。爰を以て前かたより其覺悟を定め。
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『武道初心集』戒背語主君を持奉公仕る武士は。諸傍輩の身の上の惡事を見聞ても。陰噂を仕間敷と。常々たしなみ肝要に候。如何となれば。我が身とても我知らず。いか樣の致し損じ心得違ひ。有るべきも計られず。其上總じて家老年寄をはじめ諸役人の義は。主君の御目がねを以て。仰付らるゝ事にて候へば。其面々の義を惡しく申す時は。主君を謗り申すも同然の義に候。又何ぞに付。其人を頼まずして叶はざる用事ある時は。機嫌を見合せ。手を束ね。膝を屈め。偏に頼み入存ずるなどゝも。いはねばならぬ事も有るまじきに非ず候。只今までは陰うしろに於て。誹り嘲りたる口を噤めて。如何に用があればとて。武士たる者の口より。申出されたる口上にては無之候。初心の武士心得のため仍如件。
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