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武道初心集 / 禮敬一

忠孝の二つの道は。武士の身の上に限りたる義にては無之。農工商とてもかはる義は無之候。然りといへども。三民のうへには。譬へば人の子人の下人たる者が。主親と同座を致すに。膝を組み。ぬき入手を致し。物を云ふにも手をつくこともなく。上に座して居る主親へ。立ながら物を申し。其外萬事に付。無禮不作法多けれども。それには搆ひなく。唯主親を大切に思ふ志の誠をさへ盡し候へば。事濟申候は。是三民の輩の忠孝に候。武士道に於ては。たとひいか程心に忠孝を守り候ても。其形に於て。主を敬ひ親を尊ぶの禮儀なくては。道に叶ひたるとは申されず候。但主君の御事は申すに及ばず。親々へ對し候ても。目の前に於ての慮外緩怠は。武士を立る程のものは。可仕樣無之候。主親の目通りを離れ。陰うしろに於ても。聊疎略を致す事なく。陰日向なきを以て。武士の忠孝とは申にて候。何れの所に寢臥を仕り候共。主君の御座の方へは。かりにも我足をさし向けず。卷藁を立弓を射るにも。御座の方へは矢落をなさず。鎗薙刀を懸置にも。切先をさし向けず。

新字:忠孝の二つの道は。武士の身の上に限りたる義にては無之。農工商とてもかはる義は無之候。然りといへども。三民のうへには。譬へば人の子人の下人たる者が。主親と同座を致すに。膝を組み。ぬき入手を致し。物を云ふにも手をつくこともなく。上に座して居る主親へ。立ながら物を申し。其外万事に付。無礼不作法多けれども。それには搆ひなく。唯主親を大切に思ふ志の誠をさへ尽し候へば。事済申候は。是三民の輩の忠孝に候。武士道に於ては。たとひいか程心に忠孝を守り候ても。其形に於て。主を敬ひ親を尊ぶの礼儀なくては。道に叶ひたるとは申されず候。但主君の御事は申すに及ばず。親々へ対し候ても。目の前に於ての慮外緩怠は。武士を立る程のものは。可仕様無之候。主親の目通りを離れ。陰うしろに於ても。聊疎略を致す事なく。陰日向なきを以て。武士の忠孝とは申にて候。何れの所に寝臥を仕り候共。主君の御座の方へは。かりにも我足をさし向けず。巻藁を立弓を射るにも。御座の方へは矢落をなさず。鎗薙刀を懸置にも。切先をさし向けず。

書き下し

忠孝の二つの道は。武士の身の上に限りたる義にては無之。農工商とてもかはる義は無之候。然りといへども。三民のうへには。譬へば人の子人の下人たる者が。主親と同座を致すに。膝を組み。ぬき入手を致し。物を云ふにも手をつくこともなく。上に座して居る主親へ。立ながら物を申し。其外萬事に付。無禮不作法多けれども。それには搆ひなく。唯主親を大切に思ふ志の誠をさへ盡し候へば。事濟申候は。是三民の輩の忠孝に候。武士道に於ては。たとひいか程心に忠孝を守り候ても。其形に於て。主を敬ひ親を尊ぶの禮儀なくては。道に叶ひたるとは申されず候。但主君の御事は申すに及ばず。親々へ對し候ても。目の前に於ての慮外緩怠は。武士を立る程のものは。可仕樣無之候。主親の目通りを離れ。陰うしろに於ても。聊疎略を致す事なく。陰日向なきを以て。武士の忠孝とは申にて候。何れの所に寢臥を仕り候共。主君の御座の方へは。かりにも我足をさし向けず。卷藁を立弓を射るにも。御座の方へは矢落をなさず。鎗薙刀を懸置にも。切先をさし向けず。

現代語訳

忠孝の二つの道は、武士の身の上に限ったことではなく、農・工・商でも変わりはありません。しかし、三民の場合は、たとえば人の子や人の召使が主人や親と同席するとき、膝を組み、袖に手を入れ、ものを言うにも手をつくことなく、上座にいる主人や親へ立ったままものを言うなど、すべてにわたって無礼や不作法が多くても、それには構わず、ただ主人や親を大切に思う志の誠さえ尽くせば済むというのが、三民の輩の忠孝です。武士道においては、たとえ心の中でどれほど忠孝を守っていても、その形において主を敬い親を尊ぶ礼儀がなければ、道にかなっているとは言えません。ただし、主君のことは言うに及ばず、親たちに対しても、目の前で無礼や怠りをする者は、武士として身を立てるほどの者には、あるはずがありません。主君や親の目の届かない所、陰や後ろでも少しも疎略にせず、陰日向のないことを、武士の忠孝と言うのです。どこで寝臥しても、主君の御座所の方へは、かりそめにも自分の足を向けず、巻藁を立てて弓を射るにも、御座所の方へは矢を落とさず、槍や薙刀を立てかけるにも、切っ先を向けず、

解説

この段は、忠孝を心だけでなく形で示せと述べます。農工商は誠の志さえあれば作法は問わないが、武士は礼儀という形が伴わなければ道にかなわないとしています。注目したいのは、目の前だけでなく陰日向なく守る点です。足を向けない、矢を向けない、切っ先を向けないという細かな例は、敬意がふだんの動作に染み込んでいるかを問うものです。現代でも、上司の前だけ丁寧で、いない所では雑という人は信頼されません。目の届かない場面での振る舞いこそ、その人の本当の姿勢だという指摘は、組織の信頼づくりにも当てはまります。

この章句が説くこと

忠孝礼儀陰日向作法敬意武道初心集

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