武道便蒙録 / 卷之三・朱に交われば赤くなる友の選び
○俗の諺に、朱に交れば赤くなると云ことあり、これ水は方圓の器にしたがひ、人は善惡の友によるべし、孔子家語曰、與善人居、如入芝蘭之室、久而不聞其香、即與之化矣、與不善人居、如入鮑魚之肆、久而不聞其臭、亦與之化矣、丹之所藏者赤、漆之所藏者黑、是以君子必愼其所與處者焉、これ孔子の語なり、いふ心は、芝蘭は香草なり、善人の中に居れば、見ること聞くことにつき、日々善事をなして、おぼへず善人となる、たとへば、芝蘭の室に入て、初は香ばしき氣を覺へたるが、後にはそれになれ化して、香氣を覺へざるが如し、鮑魚の肆は鹽漬の魚など、ならべたるみ□なり、不善人の中に居れば、見ること聞くこと、みな惡事にて、それに染り惡事をしながら、それが常になり、惡事とも覺へず、たとへば鮑魚の肆に入て、初は臭氣を覺へたるが、後にはなれて、臭氣を覺へざるが如し、丹のある處は赤く、漆のある處は黑し、それに染るが故なり、因て君子は平生近付る人、出會の人が大事と愼む也、
新字:○俗の諺に、朱に交れば赤くなると云ことあり、これ水は方円の器にしたがひ、人は善悪の友によるべし、孔子家語曰、与善人居、如入芝蘭之室、久而不聞其香、即与之化矣、与不善人居、如入鮑魚之肆、久而不聞其臭、亦与之化矣、丹之所蔵者赤、漆之所蔵者黒、是以君子必慎其所与処者焉、これ孔子の語なり、いふ心は、芝蘭は香草なり、善人の中に居れば、見ること聞くことにつき、日々善事をなして、おぼへず善人となる、たとへば、芝蘭の室に入て、初は香ばしき気を覚へたるが、後にはそれになれ化して、香気を覚へざるが如し、鮑魚の肆は塩漬の魚など、ならべたるみ□なり、不善人の中に居れば、見ること聞くこと、みな悪事にて、それに染り悪事をしながら、それが常になり、悪事とも覚へず、たとへば鮑魚の肆に入て、初は臭気を覚へたるが、後にはなれて、臭気を覚へざるが如し、丹のある処は赤く、漆のある処は黒し、それに染るが故なり、因て君子は平生近付る人、出会の人が大事と慎む也、
書き下し
○俗の諺に、朱に交れば赤くなると云ことあり、これ水は方圓の器にしたがひ、人は善惡の友によるべし、孔子家語曰、與善人居、如入芝蘭之室、久而不聞其香、即與之化矣、與不善人居、如入鮑魚之肆、久而不聞其臭、亦與之化矣、丹之所藏者赤、漆之所藏者黑、是以君子必愼其所與處者焉、これ孔子の語なり、いふ心は、芝蘭は香草なり、善人の中に居れば、見ること聞くことにつき、日々善事をなして、おぼへず善人となる、たとへば、芝蘭の室に入て、初は香ばしき氣を覺へたるが、後にはそれになれ化して、香氣を覺へざるが如し、鮑魚の肆は鹽漬の魚など、ならべたるみ□なり、不善人の中に居れば、見ること聞くこと、みな惡事にて、それに染り惡事をしながら、それが常になり、惡事とも覺へず、たとへば鮑魚の肆に入て、初は臭氣を覺へたるが、後にはなれて、臭氣を覺へざるが如し、丹のある處は赤く、漆のある處は黑し、それに染るが故なり、因て君子は平生近付る人、出會の人が大事と愼む也、
現代語訳
世間の諺に「朱に交われば赤くなる」ということがあります。これは水が四角や丸の器に従うように、人も善悪の友によるということです。孔子家語に言います。「善人と居るのは、芝蘭の室に入るようなもので、久しくしてその香りを感じなくなるが、それと化したのである。不善の人と居るのは、鮑魚の店に入るようなもので、久しくしてその臭いを感じなくなるが、これもそれと化したのである。丹を蔵する所は赤くなり、漆を蔵する所は黒くなる。このゆえに君子は必ずその共に居る者を慎む」。これは孔子の語です。その意味は、芝蘭は香草です。善人の中に居れば、見ること聞くことにつけ、日々善事をなして、覚えず善人となります。たとえば芝蘭の室に入って、初めは香ばしい気を感じたのが、後にはそれに慣れ化して、香りを感じなくなるようなものです。鮑魚の肆とは塩漬けの魚などを並べた店で、み(底本で判読できない字)なりの場所です。不善の人の中に居れば、見ること聞くことがみな悪事で、それに染まって、悪事をしながらそれが常になり、悪事とも思わなくなります。たとえば鮑魚の肆に入って、初めは臭気を感じたのが、後には慣れて臭気を感じなくなるようなものです。丹のある所は赤く、漆のある所は黒いのは、それに染まるからです。よって君子は普段から近づける人、出会う人が大事だと慎むのです。
解説

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