孟子 / 滕文公章句下
孟子謂戴不勝曰、子欲子之王之善與。我明告子。有楚大夫於此、欲其子之齊語也、則使齊人傅諸。使楚人傅諸。曰、使齊人傅之。曰、一齊人傅之、衆楚人咻之、雖日撻而求其齊也、不可得矣。引而置之莊嶽之間數年、雖日撻而求其楚、亦不可得矣。子謂薛居州善士也、使之居於王所。在於王所者、長幼卑尊、皆薛居州也、王誰與為不善。在王所者、長幼卑尊、皆非薛居州也、王誰與為善。一薛居州、獨如宋王何。」
新字:孟子謂戴不勝曰、子欲子之王之善与。我明告子。有楚大夫於此、欲其子之斉語也、則使斉人傅諸。使楚人傅諸。曰、使斉人傅之。曰、一斉人傅之、衆楚人咻之、雖日撻而求其斉也、不可得矣。引而置之荘嶽之間数年、雖日撻而求其楚、亦不可得矣。子謂薛居州善士也、使之居於王所。在於王所者、長幼卑尊、皆薛居州也、王誰与為不善。在王所者、長幼卑尊、皆非薛居州也、王誰与為善。一薛居州、独如宋王何。」
書き下し
孟子、戴不勝に謂いて曰く、「子は子の王の善ならんことを欲するか。我明らかに子に告げん。此に楚の大夫有らんに、其の子の齊語せんことを欲すれば、則ち齊人をして諸に傅たらしめんか。楚人をして諸に傅たらしめんか。」曰く、「齊人をして之に傅たらしめん。」曰く、「一齊人之に傅たるも、衆楚人之を咻せば、雖日に撻(むちうつ)ちて其の齊たらんことを求むと雖も、得可からず。引いて之を莊嶽の間に置くこと數年ならば、日に撻ちて其の楚たらんことを求むと雖も、亦た得可からず。子、薛居州を善士と謂い、之をして王の所に居らしむ。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州ならば、王は誰と與にか不善を為さん。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州に非ざれば、王は誰と與にか善を為さん。一薛居州、獨り宋王を如何せん。」 <語釈> ○「咻」、音はキュウ、義はかまびすしくすること。○「莊嶽」、顧炎武云う、莊は是れ街の名、嶽は是れ里の名。
現代語訳
孟子は宋の臣の戴不勝に言った。 「あなたは宋の王が善政を行う立派な人になることを望んでいますか。それならはっきりと申し上げましょう。今ここに楚の大夫がいて、自分の子に齊の言葉を学ばせたいと思っているとしたら、あなたは齊の人を教育係にしますか、それとも楚の人を教育係にしますか。」 「齊の人を教育係にします。」 「一人の齊人が教育係になったとしても、まわりで多くの楚人が楚の言葉で話しかけていたのでは、鞭を持って厳しく齊の言葉を覚えさせようとしても、上達は望めません。しかしあなたが其の子を連れて齊に帰り、莊や嶽の街で数年暮らさせたら、鞭を持って厳しく楚の言葉を話させようとしても、そうならないでしょう。それと同じことで、あなたは薛居州を立派な人だと考えて、王様の近習にさせました。もし近習の者たちが、年寄りも若い者も、身分の卑しい者も尊い者も、皆薛居州のような立派な人ならば、王様は誰と善くないことをなされましょうか。逆に近習の者たちが、年寄りも若い者も、身分の卑しい者も尊い者も、皆薛居州のような立派な人でなければ、王様は誰と善いことをなされましょうか。薛居州一人の力だけでは、王様を善政を行う立派な王にすることはできません。」
解説
この章句が説くこと
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