武道便蒙録 / 卷之二・人を見る眼・下の意見を聞く・任せきる
備立、陣取、行列、惣て弓矢の內ならしを、基石人形を以て、常にならはし、家の風義ならひとなるが如く、能人を敎へ、其理を知らしめ、其武者分を乘て定る事、此の三ヶ條を以て、軍家の大要とせり、能く人を見知ること專要なるべし、人を見るに察やうあり、肉眼を以て視る時は、視れども見へず、愼眼を以て視る時は、見ずして、しかも能く見へる也、上に立つ人は、人を使ふに工夫を以て權威をうすくすべからず、群下外議者論、群下は、もろ〱のしもと讀む、下たるもの大勢のこと也、外に議するとは、我まへては、だまりて、外にて上を評判すること也、上たる人我いふことをよしとをもい、臣の我が前にて、存じよりを云を嫌ふときは、大勢の下たるもの、外にて上のことを、ひはんするものなり、さやうあるときは、權威うすくなりて、地にしづみ、をちいるごとくなるゆへ、しづむと云也、これ刑罰を以て制しとゞむべきにあらず、わが前にて存じよりを云はせねば、かならず、かやうになるものなり、既用不任者疏、行賞悋色者沮、多許少與者怨、既迎而拒者乖、薄施厚望者不報、既にとは、はやと云心なり、任せずとは、うちまかせぬことなり、疏はをろそかとよみて、もの〱まばらにて、めのつまらぬことなり、既用不任とは、はやその人を擧用ひたらば、うちまかせて、そのむきのことを、
新字:備立、陣取、行列、惣て弓矢の内ならしを、基石人形を以て、常にならはし、家の風義ならひとなるが如く、能人を教へ、其理を知らしめ、其武者分を乗て定る事、此の三ヶ条を以て、軍家の大要とせり、能く人を見知ること専要なるべし、人を見るに察やうあり、肉眼を以て視る時は、視れども見へず、慎眼を以て視る時は、見ずして、しかも能く見へる也、上に立つ人は、人を使ふに工夫を以て権威をうすくすべからず、群下外議者論、群下は、もろ〱のしもと読む、下たるもの大勢のこと也、外に議するとは、我まへては、だまりて、外にて上を評判すること也、上たる人我いふことをよしとをもい、臣の我が前にて、存じよりを云を嫌ふときは、大勢の下たるもの、外にて上のことを、ひはんするものなり、さやうあるときは、権威うすくなりて、地にしづみ、をちいるごとくなるゆへ、しづむと云也、これ刑罰を以て制しとゞむべきにあらず、わが前にて存じよりを云はせねば、かならず、かやうになるものなり、既用不任者疏、行賞悋色者沮、多許少与者怨、既迎而拒者乖、薄施厚望者不報、既にとは、はやと云心なり、任せずとは、うちまかせぬことなり、疏はをろそかとよみて、もの〱まばらにて、めのつまらぬことなり、既用不任とは、はやその人を挙用ひたらば、うちまかせて、そのむきのことを、
書き下し
備立、陣取、行列、惣て弓矢の內ならしを、基石人形を以て、常にならはし、家の風義ならひとなるが如く、能人を敎へ、其理を知らしめ、其武者分を乘て定る事、此の三ヶ條を以て、軍家の大要とせり、能く人を見知ること專要なるべし、人を見るに察やうあり、肉眼を以て視る時は、視れども見へず、愼眼を以て視る時は、見ずして、しかも能く見へる也、上に立つ人は、人を使ふに工夫を以て權威をうすくすべからず、群下外議者論、群下は、もろ〱のしもと讀む、下たるもの大勢のこと也、外に議するとは、我まへては、だまりて、外にて上を評判すること也、上たる人我いふことをよしとをもい、臣の我が前にて、存じよりを云を嫌ふときは、大勢の下たるもの、外にて上のことを、ひはんするものなり、さやうあるときは、權威うすくなりて、地にしづみ、をちいるごとくなるゆへ、しづむと云也、これ刑罰を以て制しとゞむべきにあらず、わが前にて存じよりを云はせねば、かならず、かやうになるものなり、既用不任者疏、行賞悋色者沮、多許少與者怨、既迎而拒者乖、薄施厚望者不報、既にとは、はやと云心なり、任せずとは、うちまかせぬことなり、疏はをろそかとよみて、もの〱まばらにて、めのつまらぬことなり、既用不任とは、はやその人を擧用ひたらば、うちまかせて、そのむきのことを、
現代語訳
陣の備え立て、陣取り、行列など、すべて弓矢の内の習練を、碁石や人形を使って常に習わせ、家の風儀や習いとなるようにし、よく人を教え、その理を知らせ、その武者分を乗せて定めること。この三か条を軍家の大要としました。よく人を見知ることが専要です。人を見るには見方があります。肉眼で視れば、視ても見えません。慎眼(つつしんだ眼)で視れば、見なくてもよく見えるのです。上に立つ人は、人を使うのに工夫を用いて、権威を薄くしてはなりません。「群下外議する者は論ず」。群下とはもろもろの下のことで、下の者が大勢いることをいいます。外に議するとは、自分の前では黙って、外で上を評判することです。上に立つ人が、自分の言うことをよしと思い、家臣が自分の前で意見を言うのを嫌うときは、大勢の下の者が外で上のことを批判するものです。そうなると権威が薄くなり、地に沈み落ちるようになるので、沈むというのです。これは刑罰で制して止められるものではありません。自分の前で意見を言わせなければ、必ずこうなるものです。「既に用いて任せざる者は疏し、賞を行って色を吝しむ者は沮し、多く許して少なく与える者は怨み、既に迎えて拒む者は乖き、薄く施して厚く望む者は報いられず」。既にとは、早やという心です。任せずとは、うちまかせないことです。疏はおろそかと読み、ものがまばらで、目がつまっていないことです。既用不任とは、早くその人を挙げ用いたなら、うちまかせて、その向きのことを、
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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史記 周本紀是に於て諸侯乃ち申侯に即きて共に故の幽王の太子宜臼を立つ。是を平王と為し、以て周の祀を奉ず。平王立ちて、東のかた雒邑に遷り、戎寇を辟く。平王の時、周室衰微し、諸侯彊は弱を并せ、斉・楚・秦・晋始めて大きく、政は方伯に由る。四十九年、魯の隠公即位す。五十一年、平王崩ず。太子洩父早く死し、其の子林を立つ。是を桓王と為す。桓王は、平王の孫なり。桓王の三年、鄭の荘公朝す。桓王礼せず。五年、鄭怨み、魯と許田を易ふ。許田は、天子の太山に事を用ゐるの田なり。八年、魯隠公を殺し、桓公を立つ。十三年、鄭を伐つ。鄭桓王を射傷し、桓王去りて帰る。二十三年、桓王崩じ、子荘王佗立つ。荘王の四年、周公黒肩荘王を殺して王子克を立てんと欲す。辛伯王に告げ、王周公を殺す。王子克燕に奔る。十五年、荘王崩じ、子釐王胡斉立つ。釐王の三年、斉の桓公始めて霸たり。五年、釐王崩じ、子恵王閬立つ。恵王の二年。初め、荘王姚を嬖姫とし、子穨を生む。穨寵有り。恵王即位するに及び、其の大臣の園を奪ひて以て囿と為す。故に大夫辺伯等五人乱を作し、燕・衛の師を召して、恵王を伐たんと謀る。恵王温に犇り、已にして鄭の櫟に居る。釐王の弟穨を立てて王と為す。楽して徧舞に及ぶ。鄭・虢の君怒る。四年、鄭と虢の君王穨を伐ちて殺し、復た恵王を入る。恵王の十年、斉の桓公に賜ひて伯と為す。二十五年、恵王崩じ、子襄王鄭立つ。襄王の母蚤く死し、後母を恵后と曰ふ。恵后叔帯を生み、恵王に寵有り、襄王之を畏る。三年、叔帯戎・翟と謀りて襄王を伐たんとす。襄王叔帯を誅せんと欲し、叔帯斉に奔る。斉の桓公管仲をして戎を周に平らげしめ、隰朋をして戎を晋に平らげしむ。王上卿の礼を以て管仲を礼す。
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史記 孝武本紀至)愈えず。游水発根乃ち言ひて曰く、「上郡に巫有り、病みて鬼之に下る。」と。上召して之を甘泉に置きて祠る。病むに及び、人をして神君に問はしむ。神君言ひて曰く、「天子病を憂ふる毋かれ。病少しく愈えなば、彊ひて我と甘泉に会せよ。」と。是に於て病愈え、遂に甘泉に幸す、病良(まこと)に已む。天下に大赦し、寿宮の神君を置く。神君の最も貴き者は(大夫)[太一]、其の佐を大禁・司命の属と曰ひ、皆之に従ふ。見るを得べきに非ず、其の音を聞く、人の言と等し。時に去り時に来たる、来たれば則ち風粛然たり。室の帷中に居る。時に昼言ふ、然れども常に夜を以てす。天子祓ひ、然る後に入る。巫に因りて主人と為し、飲食を関す。欲する所の者言へば行下す。又寿宮・北宮を置き、羽旗を張り、供具を設け、以て神君を礼す。神君の言ふ所、上人をして受けて其の言を書かしめ、之を命じて「画法」と曰ふ。其の語る所は、世俗の知る所なり、絶殊なる者毋し、而して天子独り喜ぶ。其の事秘にして、世知る莫きなり。其の後三年、有司言ふ元は宜しく天瑞を以て命ずべし、宜しく一二を以て数ふべからずと。一元を建元と曰ひ、二元は長星を以て元光と曰ひ、三元は郊して一角の獣を得たるを以て元狩と曰ふと云ふ。其の明年冬、天子雍に郊し、議して曰く、「今上帝は朕親ら郊す、而して后土は祀る毋し、則ち礼答へず。」と。有司太史公・祠官寛舒等と議す、「天地の牲は角繭栗なり。今陛下親ら后土を祀る、后土は宜しく沢中の圜丘に於て五壇を為り、壇ごとに一黄犢の太牢の具、已に祠らば尽く瘞め、而して祠に従ふものは衣黄を上ぶべし。」と。是に於て天子遂に東し、始めて后土の祠を汾陰の脽上に立つること、寛舒等の議の如くす。上親ら望拝すること、上帝の礼の如くす。礼畢り、天子遂に滎陽に至りて還る。雒陽を過ぎ、詔を下して曰く、「三代は邈絶し、遠くして存し難し。其れ三十里の地を以て周の後を封じて周子南君と為し、以て先王の祀を奉ぜしめよ。」と。
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福翁自伝・幼少の時・反故を踏みお札を踏む又私の十二、三歳の頃と思う。兄が何か反古を揃えて居る処を、私がドタバタ踏んで通った所が兄が大喝一声、コリャ待てと酷く叱り付けて、「お前は眼が見えぬか、之を見なさい、何と書いてある、奥平大膳大夫と御名があるではないかと大造な権幕だから、「アヽ左様で御在ましたか、私は知らなんだと云うと、「知らんと云ても眼があれば見える筈じゃ、御名を足で踏むとは如何云う心得である、臣子の道はと、何か六かしい事を並べて厳しく叱るから謝らずには居られぬ。「私が誠に悪う御在ましたから堪忍して下さいと御辞儀をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ。「何の事だろう、殿様の頭でも踏みはしなかろう、名の書いてある紙を踏んだからッて構うことはなさそうなものだと甚だ不平で、ソレカラ子供心に独り思案して、兄さんの云うように殿様の名の書いてある反古を踏んで悪いと云えば、神様の名のある御札を踏んだら如何だろうと思て、人の見ぬ処で御札を踏んで見た所が何ともない。「ウム何ともない、コリャ面白い、今度は之を洗手場に持て行て遣ろうと、一歩を進めて便所に試みて、その時は如何かあろうかと少し怖かったが、後で何ともない。「ソリャ見たことか、兄さんが余計な、あんな事を云わんでも宜いのじゃと独り発明したようなものだが、是れ許りは母にも云われず姉にも云われず、云えば屹と叱られるから、一人で窃と黙って居ました。
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『甲陽軍鑑』品第十三去る程に鎌倉の公方を守護し奉る国々は相摸·武蔵·上野·下野·安房·上総·出羽·奥州·佐渡·越後·信濃·飛弾此国々の侍衆、大身·小身ともに悉く守護豊饒の様子なり、併公方世が世にてましますときより、上杉諸侍の棟梁と有る上意を承はつて推量候へば、諸国の侍大小皆此管領一人のさいはいを守る、両上杉とは申せども先山内殿を肝要に用ゆる故、結句後には公方をわきへなし奉り、十人は七人山内殿二人、扇谷へと申て、公方様へは漸々一人も出仕いたさずしてゐたるにより、公方の御仕合せ如此に候へども、山内殿に楯をつく侍一人としてなき故、少しも子細なく治る、
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『呻吟語』外篇・聖賢・儒者は理を認むるを要す賢人の言は聖人に視ぶれば未だ病有るを免れず。此れ其の大較のみ。怪しむ可きは俗儒の是れ聖人の語と說くを見れば、便ち其の短を迴護して類を推して以て通を求め、是れ賢人の言と說くを見れば、便ち其の疵を洗索して文を深くして以て過を求むるなり。是の故に儒者は理を認むるを要す。理の在る所は、狂夫の言と雖も、聖人に異ならず。聖人豈に一時の感に出でて、當然不易の訓と為す可からざる者無からんや。