武道便蒙録 / 卷之二・軍を縛る君主の害と勝を知る五つの道
はからずして、將に命ずるを云ふ、麋は御なり、駕御をつなぎ、からむるやうなるの意、君より軍將に自由のはたらきをさせざるなり、たとへば、良馬の足をつなひて、あゆまざるが如し、君軍の進退を知らずして、而も其軍將を進退す、故に下知するところ、皆規矩にたがへり、三軍の事とは、凡軍中の曲節、號令、賞罰の事なり、政は軍を治るの政令なり、惑は迷惑して從ふところを知らざるなり、權は權柄、將に任ずべき器量ある人なり、任は委任なり、君其將にあらざる人を、大將となすときは、軍士疑つて、其令するところを信せず、難は患難なり、引は奪なり、言ふ心は、國君いたづらに、其將を制するとを知て、其人を用ゆるとあたはず、而して、其の政任を同くするときは、三軍の士卒をして、疑惑せしむ、故に隣國其つひへに乘じて、諸侯の難をこる、これみづから、其軍を亂し、自ら其勝を去り、諸侯を引て、己れにかたしむるなり、故に知勝有五、勝を知ると云は、未だ戰はずして、先づ其必勝を占ふべし、五ッありとは、下の五ヶ條なり、長ずるところ我にあり、短なるところ彼にあるときは、戰ふべし、短なるところ我にあり、長ずるところ彼にあるときは、是れと戰ふべからず、戰ふべきときは、進て攻、戰ふべからざるときは、退き守る、攻守の宜しきをつまびらかにするときは、勝ずと云となし、
新字:はからずして、将に命ずるを云ふ、麋は御なり、駕御をつなぎ、からむるやうなるの意、君より軍将に自由のはたらきをさせざるなり、たとへば、良馬の足をつなひて、あゆまざるが如し、君軍の進退を知らずして、而も其軍将を進退す、故に下知するところ、皆規矩にたがへり、三軍の事とは、凡軍中の曲節、号令、賞罰の事なり、政は軍を治るの政令なり、惑は迷惑して従ふところを知らざるなり、権は権柄、将に任ずべき器量ある人なり、任は委任なり、君其将にあらざる人を、大将となすときは、軍士疑つて、其令するところを信せず、難は患難なり、引は奪なり、言ふ心は、国君いたづらに、其将を制するとを知て、其人を用ゆるとあたはず、而して、其の政任を同くするときは、三軍の士卒をして、疑惑せしむ、故に隣国其つひへに乗じて、諸侯の難をこる、これみづから、其軍を乱し、自ら其勝を去り、諸侯を引て、己れにかたしむるなり、故に知勝有五、勝を知ると云は、未だ戦はずして、先づ其必勝を占ふべし、五ッありとは、下の五ヶ条なり、長ずるところ我にあり、短なるところ彼にあるときは、戦ふべし、短なるところ我にあり、長ずるところ彼にあるときは、是れと戦ふべからず、戦ふべきときは、進て攻、戦ふべからざるときは、退き守る、攻守の宜しきをつまびらかにするときは、勝ずと云となし、
書き下し
はからずして、將に命ずるを云ふ、麋は御なり、駕御をつなぎ、からむるやうなるの意、君より軍將に自由のはたらきをさせざるなり、たとへば、良馬の足をつなひて、あゆまざるが如し、君軍の進退を知らずして、而も其軍將を進退す、故に下知するところ、皆規矩にたがへり、三軍の事とは、凡軍中の曲節、號令、賞罰の事なり、政は軍を治るの政令なり、惑は迷惑して從ふところを知らざるなり、權は權柄、將に任ずべき器量ある人なり、任は委任なり、君其將にあらざる人を、大將となすときは、軍士疑つて、其令するところを信せず、難は患難なり、引は奪なり、言ふ心は、國君いたづらに、其將を制するとを知て、其人を用ゆるとあたはず、而して、其の政任を同くするときは、三軍の士卒をして、疑惑せしむ、故に隣國其つひへに乘じて、諸侯の難をこる、これみづから、其軍を亂し、自ら其勝を去り、諸侯を引て、己れにかたしむるなり、故に知勝有五、勝を知ると云は、未だ戰はずして、先づ其必勝を占ふべし、五ッありとは、下の五ヶ條なり、長ずるところ我にあり、短なるところ彼にあるときは、戰ふべし、短なるところ我にあり、長ずるところ彼にあるときは、是れと戰ふべからず、戰ふべきときは、進て攻、戰ふべからざるときは、退き守る、攻守の宜しきをつまびらかにするときは、勝ずと云となし、
現代語訳
考えずに将に命じることをいいます。麋は御のことで、馬をつなぎ絡めるような意味です。君主が軍の将に自由な働きをさせないことです。たとえば、良い馬の足をつないで歩けなくするようなものです。君主が軍の進退を知らないのに、その軍将を進退させます。そのため、下す指図は皆、規矩に背いています。三軍の事とは、おおよそ軍中の曲節(細かな作法)、号令、賞罰のことです。政とは、軍を治める政令です。惑とは、迷って従うところを知らないことです。権とは権柄であり、将に任ずべき器量のある人のことです。任とは委任です。君主がその将にふさわしくない人を大将にすれば、軍士は疑って、その命令を信じません。難とは患難のことです。引とは奪うことです。言う心は、君主がむやみにその将を制することだけを知って、その人を用いることができず、しかもその政と任を同じくすれば、三軍の士卒に疑いと迷いを生じさせるということです。それゆえ隣国がその疲弊に乗じて、諸侯の難が起こります。これは自分でその軍を乱し、自分でその勝利を去らせ、諸侯を引いて自分に勝たせることなのです。「故に勝を知るに五つあり」の、勝を知るとは、まだ戦わないうちに、まず必勝を占うことです。五つあるとは、以下の五か条のことです。長所が我にあり、短所が彼にあるときは戦うべきです。短所が我にあり、長所が彼にあるときは、これと戦ってはなりません。戦うべきときは進んで攻め、戦うべきでないときは退いて守ります。攻めと守りの適切さを明らかに知れば、勝たないということはありません。
解説

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史記 張釈之馮唐列伝吾独り廉頗・李牧を得て時に吾が将と為さざるか。吾豈に匈奴を憂へんや」と。唐曰く、「主臣。陛下廉頗・李牧を得と雖も、用ふること能はざるなり」と。上怒り、起ちて禁中に入る。良久しくして、唐を召して譲(せ)めて曰く、「公柰何ぞ衆にて我を辱むる。独り間処無からんや」と。唐謝して曰く、「鄙人忌諱を知らず」と。是の時に当たり、匈奴新たに大いに朝那に入り、北地の都尉卬を殺す。上胡寇を以て意と為し、乃ち卒に復た唐に問ひて曰く、「公何を以て吾が廉頗・李牧を用ふること能はざるを知るや」と。唐対へて曰く、「臣聞く、上古の王者の将を遣はすや、跪きて轂を推し、曰く閫(こん)以内は寡人之を制し、閫以外は将軍之を制すと。軍功爵賞は皆外に決し、帰りて之を奏す。此れ虚言に非ざるなり。臣の大父言ふ、李牧、趙の将と為りて辺に居り、軍市の租は皆自ら用ひて士を饗し、賞賜は外に決し、中より擾されずと。委任して成功を責む。故に李牧乃ち其の智能を尽くすを得たり。選車千三百乗、彀騎万三千、百金の士十万を遣はし、是を以て北のかた単于を逐ひ、東胡を破り、澹林を滅ぼし、西のかた彊秦を抑へ、南のかた韓・魏を支ふ。是の時に当たりて、趙幾(ほと)んど霸たらんとす。其の後会(たまたま)趙王遷立つ。其の母は倡なり。王遷立ち、乃ち郭開の讒を用ひ、卒に李牧を誅し、顔聚をして之に代はらしむ。是を以て兵破れ士北(に)げ、秦の禽滅する所と為る。今臣竊かに聞く、魏尚雲中の守と為り、其の軍市の租は尽く以て士卒を饗し、[出]私養の銭もて、五日に一たび牛を椎(う)ち、賓客・軍吏・舎人を饗す。是を以て匈奴遠く避け、雲中の塞に近づかず。虜曾て一たび入る。尚、車騎を率ゐて之を撃ち、殺す所其れ衆し。夫れ士卒は尽く家人の子にして、田中より起ちて軍に従ふ。安くんぞ尺籍・伍符を知らん。終日力戦し、首を斬り虜を捕へ、功を莫府に上るに、一言相応ぜざれば、文吏法を以て之を縄す。其の賞行はれずして吏の法を奉ずるは必ず用ひらる。
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『春秋左氏伝』桓公十七年 高渠弥、昭公を弑す十七年春、黃に盟ふ。齊・紀を平らげ、且つ衛の故を謀るなり。邾の儀父と趡に盟ふ。蔑の盟を尋むるなり。夏、齊の師と奚に戰ふ。疆の事なり。是に於て齊人魯の疆を侵す。疆吏來り告ぐ。公曰く、「疆埸の事は、慎みて其の一を守りて、其の虞らざるに備ふ。姑く備ふる所を盡くせ。事至らば戰はん。又何ぞ謁げん」と。蔡の桓侯卒す。蔡人蔡季を陳より召す。秋、蔡季陳より蔡に歸る。蔡人之を嘉すればなり。邾を伐つは、宋の志なり。冬十月朔、日之を食する有り。日を書せざるは、官之を失へばなり。天子に日官有り、諸侯に日禦有り。日官は卿に居りて以て日を底(さだ)む、禮なり。日禦は日を失はず、以て百官に朝に授く。初め、鄭伯將に高渠彌を以て卿と為さんとす。昭公之を惡み、固く諫む。聽かず。昭公立つ。其の己を殺さんことを懼る。辛卯、昭公を弑して、公子亹を立つ。君子昭公を惡む所を知ると謂ふ。公子達曰く、「高伯其れ戮せられんか。惡を複すること已甚し」と。
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史記 呉王濞列伝呉王濞は、高帝の兄劉仲の子なり。高帝已に天下を定むること七年、劉仲を立てて代王と為す。而して匈奴代を攻む。劉仲堅守する能はず、国を棄てて亡げ、間行して雒陽に走り、自ら天子に帰す。天子骨肉の為の故に、法を致すに忍びず、廃して以て郃陽侯と為す。高帝十一年秋、淮南王英布反し、東のかた荊の地を并せ、其の国の兵を劫かし、西のかた淮を度り、楚を撃つ。高帝自ら将として往きて之を誅す。劉仲の子沛侯濞、年二十、気力有り。騎将を以て従ひて布の軍を蘄の西、会甀に破り、布走る。荊王劉賈布の殺す所と為り、後無し。上呉・会稽の軽悍にして、壮王の以て之を填むる無く、諸子少きを患ひ、乃ち濞を沛に立てて呉王と為し、三郡五十三城に王たらしむ。已に拝して印を受く。高帝濞を召して之を相し、謂ひて曰く、「若の状反相有り」と。心に独り悔ゆるも、業已に拝せり。因りて其の背を拊ちて、告げて曰く、「漢の後五十年、東南に乱るる者有らば、豈に若ならんや。然れども天下の同姓は一家為り。慎みて反する無かれ」と。濞頓首して曰く、「敢へてせず」と。会々孝恵・高后の時、天下初めて定まり、郡国の諸侯各々務めて自ら其の民を拊循す。呉に豫章郡の銅山有り。濞則ち天下の亡命者を招致して盗かに銭を鋳、海水を煮て塩と為す。故を以て賦無く、国用富饒なり。