武治提要 / 修身・第4段
心術に二義あり、正心、養氣なり。正心は躰なり、養氣は用なり。用を盡して躰を立、躰立て用成は、萬物の情なり。故に正心の道、專ら養氣にあり。凡氣血の精英を魂(氣)魄(血)と號し、魂魄相合して不測の妙用をなすを性と號し、暫く其方象をさして心と號し、常に內に動くものを意と云、外に發してあとあるを情と云、內に詳なるを思慮と云、趣き向ふものを志と云、躰に盈るを氣と云。此故に心を云ときは、性情ともに擧り來る。所謂正心とは其心の應用を省察して、準繩にかなわしむるの敎なり。內に思慮する處、外に發する處の好惡の意情、縱橫皆のりかねに合てたがはざる、これ乃ち正心なり。一身の主たるもの、既に規矩に適して發するときは、修身に於て何ぞ難きことあらんや。躰に盈て、目の物を見、口の味を知ごときは、是れ氣なり。養とは涵養して、武義のある處に養い導となり。凡內の動靜變化は皆外の利害に依て無窮の應用をなす、故に耳目鼻口四支のふるゝ處、氣これに從て、其好惡利害を性心に通ず。性心此氣の好惡に感通して其應用をなす。外習の內德を變ずること愼ざるべけんや。故に或は兵書を常に眼に見、或は躰を常に武術に涵すときは、氣萬物の上に伸て屈せず、これよりして心の正を得るに至るなり。此故に脩身の道、正心、養氣を重とす。
新字:心術に二義あり、正心、養気なり。正心は体なり、養気は用なり。用を尽して体を立、体立て用成は、万物の情なり。故に正心の道、専ら養気にあり。凡気血の精英を魂(気)魄(血)と号し、魂魄相合して不測の妙用をなすを性と号し、暫く其方象をさして心と号し、常に内に動くものを意と云、外に発してあとあるを情と云、内に詳なるを思慮と云、趣き向ふものを志と云、体に盈るを気と云。此故に心を云ときは、性情ともに挙り来る。所謂正心とは其心の応用を省察して、準縄にかなわしむるの教なり。内に思慮する処、外に発する処の好悪の意情、縦横皆のりかねに合てたがはざる、これ乃ち正心なり。一身の主たるもの、既に規矩に適して発するときは、修身に於て何ぞ難きことあらんや。体に盈て、目の物を見、口の味を知ごときは、是れ気なり。養とは涵養して、武義のある処に養い導となり。凡内の動静変化は皆外の利害に依て無窮の応用をなす、故に耳目鼻口四支のふるゝ処、気これに従て、其好悪利害を性心に通ず。性心此気の好悪に感通して其応用をなす。外習の内徳を変ずること慎ざるべけんや。故に或は兵書を常に眼に見、或は体を常に武術に涵すときは、気万物の上に伸て屈せず、これよりして心の正を得るに至るなり。此故に脩身の道、正心、養気を重とす。
書き下し
心術に二義あり、正心、養氣なり。正心は躰なり、養氣は用なり。用を盡して躰を立、躰立て用成は、萬物の情なり。故に正心の道、專ら養氣にあり。凡氣血の精英を魂(氣)魄(血)と號し、魂魄相合して不測の妙用をなすを性と號し、暫く其方象をさして心と號し、常に內に動くものを意と云、外に發してあとあるを情と云、內に詳なるを思慮と云、趣き向ふものを志と云、躰に盈るを氣と云。此故に心を云ときは、性情ともに擧り來る。所謂正心とは其心の應用を省察して、準繩にかなわしむるの敎なり。內に思慮する處、外に發する處の好惡の意情、縱橫皆のりかねに合てたがはざる、これ乃ち正心なり。一身の主たるもの、既に規矩に適して發するときは、修身に於て何ぞ難きことあらんや。躰に盈て、目の物を見、口の味を知ごときは、是れ氣なり。養とは涵養して、武義のある處に養い導となり。凡內の動靜變化は皆外の利害に依て無窮の應用をなす、故に耳目鼻口四支のふるゝ處、氣これに從て、其好惡利害を性心に通ず。性心此氣の好惡に感通して其應用をなす。外習の內德を變ずること愼ざるべけんや。故に或は兵書を常に眼に見、或は躰を常に武術に涵すときは、氣萬物の上に伸て屈せず、これよりして心の正を得るに至るなり。此故に脩身の道、正心、養氣を重とす。
現代語訳
心術には二つの義があり、正心と養気です。正心は体であり、養気は用です。用を尽くして体を立て、体が立って用が成るのは、万物のならいです。ですから、正心の道は、もっぱら養気にあります。およそ気血の精なるものを魂(気)と魄(血)と呼び、魂魄が合わさって不測の妙用をなすものを性と呼び、しばらくその姿をさして心と呼び、つねに内に動くものを意といい、外に発して跡があるものを情といい、内で詳しく考えるものを思慮といい、向かい趣くものを志といい、体に満ちるものを気といいます。それゆえ、心を言えば、性も情もともに挙がってきます。いわゆる正心とは、その心の応用を省みて、ものさしに合わせる教えです。内で思慮するところ、外に発するところの好悪の意や情が、縦横みなものさしに合って違わないこと、これが正心です。一身の主がすでに規矩にかなって発するなら、修身において何の難しいことがあるでしょう。体に満ちて、目が物を見、口が味を知るのは、気です。養うとは、涵養して、武義のあるところに養い導くことです。およそ内の動静や変化は、すべて外の利害によって無窮の応用をなします。ですから、耳・目・鼻・口・四肢の触れるところに気が従い、その好悪や利害を性や心に通じます。性や心はこの気の好悪に感じ通じて、その応用をなします。外の習いが内なる徳を変えることを、慎まずにいられるでしょうか。それゆえ、あるいは兵書をつねに目に見、あるいは体をつねに武術に浸していれば、気は万物の上に伸びて屈せず、そこから心の正しさを得るに至ります。このため、修身の道は、正心と養気を重んじます。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』所染子墨子、染絲する者を見て歎じて言いて曰く、「蒼に染むれば則ち蒼く、黄に染むれば則ち黄なり。入るる所の者變ずれば、其の色も亦た變ず。五たび入れて已に五色と為る。故に染は慎まざる可からざるなり」と。
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『講孟余話』滕文公下 第六章「一薛居州、独り宋王を如何せん」。此の章の義極めて明白、比喩極めて的切、而して到底又此の一句に帰す。然れども是れ独り人君の知るべきのみに非ず。卿大夫士に至るまで、争臣争友少なくては、善をなすこと甚だ難し。更に一転して思ふに、心の存する所、身の行ふ所、接する所の事、翫ぶ所の芸、皆善に非ざることなくば、何を以て不善の人たらんや。故に云ふ、「小人間居して不善をなす」と。不善の萌しは必ず無事による者なれば、是れを思ひて、身を孝悌文武の内に漸漬して、他念を生ずるに暇なくすべし。是れ亦荘嶽に置くの意なり。
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『新書』保傅秦に及びて然らず、其の俗は固より辞譲を貴ぶに非ず、上ぶ所は告訏なり。固より礼義を貴ぶに非ず、上ぶ所は刑罰なり。趙高をして胡亥に傅きて之に獄を教えしめ、習う所は人を斬劓するに非ざれば、則ち人の三族を夷するなり。故に今日位に即き、明日人を射、忠諫する者は之を誹謗と謂い、深く之が為に計る者は之を妖言と謂い、其の人を殺すを視ること艾草菅の若く然り。豈に胡亥の性悪ならんや。其の之を集め道く所以の者、理に非ざる故なり。
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『呻吟語』内篇・修身・入る所を慎み、接する所を慎む廟に入れば敬を期せずして自ら敬し、朝に入れば肅を期せずして自ら肅たり。是を以て君子は入る所を慎むなり。嚴師を見れば則ち收斂し、狎友を見れば則ち放恣なり。是を以て君子は接する所を慎むなり。
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孟子・滕文公章句下孟子、戴不勝に謂いて曰く、「子は子の王の善ならんことを欲するか。我明らかに子に告げん。此に楚の大夫有らんに、其の子の齊語せんことを欲すれば、則ち齊人をして諸に傅たらしめんか。楚人をして諸に傅たらしめんか。」曰く、「齊人をして之に傅たらしめん。」曰く、「一齊人之に傅たるも、衆楚人之を咻せば、雖日に撻(むちうつ)ちて其の齊たらんことを求むと雖も、得可からず。引いて之を莊嶽の間に置くこと數年ならば、日に撻ちて其の楚たらんことを求むと雖も、亦た得可からず。子、薛居州を善士と謂い、之をして王の所に居らしむ。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州ならば、王は誰と與にか不善を為さん。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州に非ざれば、王は誰と與にか善を為さん。一薛居州、獨り宋王を如何せん。」 <語釈> ○「咻」、音はキュウ、義はかまびすしくすること。○「莊嶽」、顧炎武云う、莊は是れ街の名、嶽は是れ里の名。
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