武備和訓 / 卷五・家老が代官を諭す商人の心と武士
一或大國の政事を與聞、二萬石ばかりの地を領する家老なりしが、鄕中の代官一日其執事の許に來りけるに對面して、暑中の談をのべ鄕市の事など尋問けるが、元來內外となく心安かりければ、彼代官謂て云、某鄕に左文字の脇指を持たる商人の候、我日比刀劔の目利に得たれば、我宅に携來て見之候、凡そ代金二百枚ばかりも付候はんと覺候、願くば君是を求玉はんやと云けるを、執事熟々聞て、商人其脇指の價貴きを知侍るや、又重寶とも不知候やと問ふ、代官云、貴き事を不知により、我を賴て豫價の貴賤を知んと欲るにあり、我君に訴ふる事は價高き物を以、卑く求得て參らせんとおもふにありと答ふ、執事頭を振て云、價貴き物を以、賤く得む事をおもふは商人の心なり、武士は定る祿ありて、其祿を以て事を辨ぜり、定る祿ありながら、無祿の商人の財を賤く買んとおもふは、其心はるかに商人に劣りて恥を用る處なし、殊更刀劔の事は、武士の一大事の器也、此劔戟の靈威嚴なるを以武士はたつもの也、貴殿其心を以用る時は、左文字の靈劔も菜刀には劣るべしと云ければ、代官大に恥入て半言を出さず、顏に汗して、退きけり、誠に武士の志か程にきれかはらずしては、其三民に異て國家を治るの器によく耐べけんや、
新字:一或大国の政事を与聞、二万石ばかりの地を領する家老なりしが、郷中の代官一日其執事の許に来りけるに対面して、暑中の談をのべ郷市の事など尋問けるが、元来内外となく心安かりければ、彼代官謂て云、某郷に左文字の脇指を持たる商人の候、我日比刀剣の目利に得たれば、我宅に携来て見之候、凡そ代金二百枚ばかりも付候はんと覚候、願くば君是を求玉はんやと云けるを、執事熟々聞て、商人其脇指の価貴きを知侍るや、又重宝とも不知候やと問ふ、代官云、貴き事を不知により、我を頼て予価の貴賤を知んと欲るにあり、我君に訴ふる事は価高き物を以、卑く求得て参らせんとおもふにありと答ふ、執事頭を振て云、価貴き物を以、賤く得む事をおもふは商人の心なり、武士は定る禄ありて、其禄を以て事を弁ぜり、定る禄ありながら、無禄の商人の財を賤く買んとおもふは、其心はるかに商人に劣りて恥を用る処なし、殊更刀剣の事は、武士の一大事の器也、此剣戟の霊威厳なるを以武士はたつもの也、貴殿其心を以用る時は、左文字の霊剣も菜刀には劣るべしと云ければ、代官大に恥入て半言を出さず、顔に汗して、退きけり、誠に武士の志か程にきれかはらずしては、其三民に異て国家を治るの器によく耐べけんや、
書き下し
一或大國の政事を與聞、二萬石ばかりの地を領する家老なりしが、鄕中の代官一日其執事の許に來りけるに對面して、暑中の談をのべ鄕市の事など尋問けるが、元來內外となく心安かりければ、彼代官謂て云、某鄕に左文字の脇指を持たる商人の候、我日比刀劔の目利に得たれば、我宅に携來て見之候、凡そ代金二百枚ばかりも付候はんと覺候、願くば君是を求玉はんやと云けるを、執事熟々聞て、商人其脇指の價貴きを知侍るや、又重寶とも不知候やと問ふ、代官云、貴き事を不知により、我を賴て豫價の貴賤を知んと欲るにあり、我君に訴ふる事は價高き物を以、卑く求得て參らせんとおもふにありと答ふ、執事頭を振て云、價貴き物を以、賤く得む事をおもふは商人の心なり、武士は定る祿ありて、其祿を以て事を辨ぜり、定る祿ありながら、無祿の商人の財を賤く買んとおもふは、其心はるかに商人に劣りて恥を用る處なし、殊更刀劔の事は、武士の一大事の器也、此劔戟の靈威嚴なるを以武士はたつもの也、貴殿其心を以用る時は、左文字の靈劔も菜刀には劣るべしと云ければ、代官大に恥入て半言を出さず、顏に汗して、退きけり、誠に武士の志か程にきれかはらずしては、其三民に異て國家を治るの器によく耐べけんや、
現代語訳
一つ、ある大国の政事に携わり、二万石ほどの地を領する家老がいました。あるとき、郷中の代官が一日その執事のもとに来て対面し、暑中の挨拶を述べ、郷市のことなどを尋ねました。もともと内外となく親しい間柄でしたので、その代官が言いました。ある郷に、左文字の脇指を持つ商人がおります。私は日頃から刀剣の目利きに長けておりますので、その者が私の宅に持参したのを見ました。おおよそ代金二百枚ほどの値が付くと思います。どうか君(殿)がこれをお求めになりませんか、と言ったのを、執事はよく聞いて、商人はその脇指の値が高いことを知っておりますか、それとも重宝とも知らないのですか、と尋ねました。代官は、貴いことを知らないので、私に頼んで前もって値の貴賤を知ろうとしているのです。私が君に申し上げたいのは、価の高い物を安く買い取ってお納めしようと思うからです、と答えました。執事は頭を振って言いました。価の高い物を安く手に入れようと思うのは商人の心です。武士には定まった禄があり、その禄で事を済ませるものです。定まった禄がありながら、禄のない商人の財を安く買おうと思うのは、その心が商人よりはるかに劣り、恥じるところがないということです。ことに刀剣は武士の一大事の器です。この剣戟の霊威が厳かであるから、武士は成り立つのです。あなたがその心で用いるなら、左文字の霊剣も菜刀にも劣るでしょう。代官は大いに恥じ入って半言も出さず、顔に汗をかいて退きました。まことに、武士の志がこのように切り替わらないで、どうして三民(農工商)と異なって国家を治める器に耐えられるでしょうか。
解説

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