武備和訓 / 卷四・犬槍とは何か、道具の利害を知る
一近世武田流の軍法に、鎗を以て打合たるをば、犬鎗として勇士の鎗にあらずと定む、愚按に、憶して尋常の勝負を忘れ、前後不覺に打合たるは、尤犬鎗たるべけれども、勇士元來の覺悟にて、奮いて堅陣を衝き、怒て殿となるの時節など、たとへ人を殺さずして、擲伏せ、打仆したりとも、それ犬鎗と云べからず、敵味方の塲中におゐて、勇憶を爭ふ鎗に見ぐるしくたゝき合て、爲る事もなきは、犬鎗なるべし、偖又戰塲によりて、其鎗の品類に利害あるべし、十文字かぎ鎗のごときは、利も多くして、又其害も多かるべし、管を篏てつかひ習ひたるは、若管なき則は、其態成べからず、如斯の事をも、常に心を用ゆべし、然れば其又ある類のものは、鎗に病あるがごとし、只何となく、直鎗の手垂にはしくべからず、
新字:一近世武田流の軍法に、鎗を以て打合たるをば、犬鎗として勇士の鎗にあらずと定む、愚按に、憶して尋常の勝負を忘れ、前後不覚に打合たるは、尤犬鎗たるべけれども、勇士元来の覚悟にて、奮いて堅陣を衝き、怒て殿となるの時節など、たとへ人を殺さずして、擲伏せ、打仆したりとも、それ犬鎗と云べからず、敵味方の塲中におゐて、勇憶を争ふ鎗に見ぐるしくたゝき合て、為る事もなきは、犬鎗なるべし、偖又戦塲によりて、其鎗の品類に利害あるべし、十文字かぎ鎗のごときは、利も多くして、又其害も多かるべし、管を篏てつかひ習ひたるは、若管なき則は、其態成べからず、如斯の事をも、常に心を用ゆべし、然れば其又ある類のものは、鎗に病あるがごとし、只何となく、直鎗の手垂にはしくべからず、
書き下し
一近世武田流の軍法に、鎗を以て打合たるをば、犬鎗として勇士の鎗にあらずと定む、愚按に、憶して尋常の勝負を忘れ、前後不覺に打合たるは、尤犬鎗たるべけれども、勇士元來の覺悟にて、奮いて堅陣を衝き、怒て殿となるの時節など、たとへ人を殺さずして、擲伏せ、打仆したりとも、それ犬鎗と云べからず、敵味方の塲中におゐて、勇憶を爭ふ鎗に見ぐるしくたゝき合て、爲る事もなきは、犬鎗なるべし、偖又戰塲によりて、其鎗の品類に利害あるべし、十文字かぎ鎗のごときは、利も多くして、又其害も多かるべし、管を篏てつかひ習ひたるは、若管なき則は、其態成べからず、如斯の事をも、常に心を用ゆべし、然れば其又ある類のものは、鎗に病あるがごとし、只何となく、直鎗の手垂にはしくべからず、
現代語訳
一つ、近世の武田流の軍法では、槍で打ち合うことを犬槍といい、勇士の槍ではないと定めています。私が考えるに、臆して尋常の勝負を忘れ、前後不覚に打ち合うのは、まさしく犬槍でしょうが、勇士本来の覚悟で、奮って堅陣を突き、怒って殿となる時節などに、たとえ人を殺さず、投げ伏せ、打ち倒したとしても、それを犬槍とはいうべきではありません。敵味方の場中で、勇と臆を争う槍に、見苦しく叩き合ってなすところもないのは、犬槍でしょう。さてまた、戦場によって、その槍の品類に利害があります。十文字や鉤槍のようなものは、利も多く、またその害も多いでしょう。管をはめて使い習ったのは、もし管がなければその技はできません。このような事も、常に心を用いるべきです。そうであれば、その他の類は槍に病があるようなものです。ただ何となく、直槍の手垂に走ってはなりません。
解説

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