武備和訓 / 卷三・万一に備える長腹帯と平生の鍛錬
如斯乘る馬は必一曲ありて、口剛く、間も强からざれば、其術に耐ざるもの也、尤乘相よきものを以、稽古馬とするは惜き事なり、儲亦長途をつよくのれば、息する事あり、尤御者の恥なり、息間を知事大事成べし、櫻狩千里を乘る時に(御者家流に櫻がり千里の手綱といふ事あり、一日に六十里も乘るを云といへども、爰におゐてはさまでの長途の事に非ず、三十里計の道又は火事塲等なり、)かならず長腹帶を引ゆべし、十人が九人識りても用る事なきは武備のうすきが故也、腹帶弛み鞍まはれば、落るよりかは鞍碎くる事あるもの也、是は自然の事なれども予已にこれを見たり、其決して無と云事を決して有とたつるを武備とは云なり、梶原が佐々木に後れたるも、長腹帶を用ひざる故成べし、且亦一日に六十里も乘ると云事、御書に見へたり、今世の人多くいぶかれり、當世弓馬の道おとろへたるにより、此ふしんあり、一時に十三里十八町を乘て、人馬ともにつかれざる事、度々ありしを、予見之たり、人馬平生の鍛鍊にて、一晝夜の間に、六十里のられまじきものにあらず、武士の馬に達せざるは、公家の無筆よりもうるさしと、さる人のいひし、
新字:如斯乗る馬は必一曲ありて、口剛く、間も強からざれば、其術に耐ざるもの也、尤乗相よきものを以、稽古馬とするは惜き事なり、儲亦長途をつよくのれば、息する事あり、尤御者の恥なり、息間を知事大事成べし、桜狩千里を乗る時に(御者家流に桜がり千里の手綱といふ事あり、一日に六十里も乗るを云といへども、爰におゐてはさまでの長途の事に非ず、三十里計の道又は火事塲等なり、)かならず長腹帯を引ゆべし、十人が九人識りても用る事なきは武備のうすきが故也、腹帯弛み鞍まはれば、落るよりかは鞍砕くる事あるもの也、是は自然の事なれども予已にこれを見たり、其決して無と云事を決して有とたつるを武備とは云なり、梶原が佐々木に後れたるも、長腹帯を用ひざる故成べし、且亦一日に六十里も乗ると云事、御書に見へたり、今世の人多くいぶかれり、当世弓馬の道おとろへたるにより、此ふしんあり、一時に十三里十八町を乗て、人馬ともにつかれざる事、度々ありしを、予見之たり、人馬平生の鍛錬にて、一昼夜の間に、六十里のられまじきものにあらず、武士の馬に達せざるは、公家の無筆よりもうるさしと、さる人のいひし、
書き下し
如斯乘る馬は必一曲ありて、口剛く、間も强からざれば、其術に耐ざるもの也、尤乘相よきものを以、稽古馬とするは惜き事なり、儲亦長途をつよくのれば、息する事あり、尤御者の恥なり、息間を知事大事成べし、櫻狩千里を乘る時に(御者家流に櫻がり千里の手綱といふ事あり、一日に六十里も乘るを云といへども、爰におゐてはさまでの長途の事に非ず、三十里計の道又は火事塲等なり、)かならず長腹帶を引ゆべし、十人が九人識りても用る事なきは武備のうすきが故也、腹帶弛み鞍まはれば、落るよりかは鞍碎くる事あるもの也、是は自然の事なれども予已にこれを見たり、其決して無と云事を決して有とたつるを武備とは云なり、梶原が佐々木に後れたるも、長腹帶を用ひざる故成べし、且亦一日に六十里も乘ると云事、御書に見へたり、今世の人多くいぶかれり、當世弓馬の道おとろへたるにより、此ふしんあり、一時に十三里十八町を乘て、人馬ともにつかれざる事、度々ありしを、予見之たり、人馬平生の鍛鍊にて、一晝夜の間に、六十里のられまじきものにあらず、武士の馬に達せざるは、公家の無筆よりもうるさしと、さる人のいひし、
現代語訳
そのように乗る馬は必ず一つの取り柄(曲)があり、口が強く、間(歩幅や息)も強くなければ、その術に耐えられません。もっとも、乗り相のよい馬を稽古馬にするのは惜しいことです。また、長い道のりを強く乗れば、息が上がることがあり、これは御者の恥です。息の間を知ることが大事でしょう。桜狩千里を乗るときに(御者の家流に桜狩千里の手綱ということがあり、一日に六十里も乗ることを言いますが、ここではそれほどの長距離のことではなく、三十里ばかりの道、または火事場などです)、必ず長腹帯を締めるべきです。十人のうち九人が知っていても用いないのは、武備が薄いからです。腹帯がゆるんで鞍がまわれば、落ちるよりも鞍が砕けることがあります。これは稀なことですが、私は実際にこれを見ました。決してないとされることを、必ずあるものと見立てるのを武備というのです。梶原が佐々木に後れたのも、長腹帯を用いなかったからでしょう。また、一日に六十里も乗るということは御書に見えます。今の世の人は多く疑いますが、今は弓馬の道が衰えたので、この疑いがあるのです。一度に十三里十八町を乗って、人馬ともに疲れないことが度々あったのを、私は見ました。人馬の平生の鍛錬によって、一昼夜の間に六十里乗れないはずはありません。武士が馬に達していないのは、公家が文字を書けないよりも見苦しい、とある人が言いました。
解説

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