二宮翁夜話 / 巻之二
三河国吉田の郷士に、高須和十郎と云人あり、舞坂駅と荒井駅の間に湊を造らんと企て、絵図面を持来て、成否を問ふ、翁曰、卿が説の如くなれば、顧慮する処なきが如くなれ共、大洋の事は測るべからず、往年の地震にて、象潟は、変地して景色を失ひ、大坂の天保山は、一夜に出来たりと、皆近年の事なり、かゝる大業は、実地に臨むといへ共、容易に成否を決す可からず、況や絵図面上に於てをや、斯の如き大業を企るには、万一失敗ある時は、斯くせんと云、叩堤の如き工夫があるか、又何様の異変にても、失敗なき工夫があり度物なり、然らざれば、卿が為に贊成する者、共に成仏する事なしとも言ひ難かるべし、然る時は、山師の誹あらん、予先年印旛沼、堀割見分の命を蒙りし時、何様の変動に遭遇しても、決して失敗なき様に工夫せり、たとひ天変はなくとも、水脈土脈を堀切る時は、必意外の事ある物なり、古語に、事前に定まれば躓ずと、予が異変ある事を前に定めたるは、異変を恐れず、異変に躓ざるの仕法なり、是大業をなすの秘事なり、卿又此工夫なくばあるべからず、然らざれば、第一自ら安ぜざるべし、古語に、内に省みて疚しからざれば何をか憂ひ何をか懼れん、とあり、されば天変をも恐れず、地変をも憂ひざる方法の工夫を先にして、大事はなすべきなり
新字:三河国吉田の郷士に、高須和十郎と云人あり、舞坂駅と荒井駅の間に湊を造らんと企て、絵図面を持来て、成否を問ふ、翁曰、卿が説の如くなれば、顧慮する処なきが如くなれ共、大洋の事は測るべからず、往年の地震にて、象潟は、変地して景色を失ひ、大坂の天保山は、一夜に出来たりと、皆近年の事なり、かゝる大業は、実地に臨むといへ共、容易に成否を決す可からず、況や絵図面上に於てをや、斯の如き大業を企るには、万一失敗ある時は、斯くせんと云、叩堤の如き工夫があるか、又何様の異変にても、失敗なき工夫があり度物なり、然らざれば、卿が為に賛成する者、共に成仏する事なしとも言ひ難かるべし、然る時は、山師の誹あらん、予先年印旛沼、堀割見分の命を蒙りし時、何様の変動に遭遇しても、決して失敗なき様に工夫せり、たとひ天変はなくとも、水脈土脈を堀切る時は、必意外の事ある物なり、古語に、事前に定まれば躓ずと、予が異変ある事を前に定めたるは、異変を恐れず、異変に躓ざるの仕法なり、是大業をなすの秘事なり、卿又此工夫なくばあるべからず、然らざれば、第一自ら安ぜざるべし、古語に、内に省みて疚しからざれば何をか憂ひ何をか懼れん、とあり、されば天変をも恐れず、地変をも憂ひざる方法の工夫を先にして、大事はなすべきなり
書き下し
三河国吉田の郷士(ごうし)に、高須和十郎と云人あり、舞坂駅(まいさかえき)と荒井駅の間に湊(みなと)を造らんと企(くわだ)て、絵図(えず)面を持来て、成否を問ふ、翁(おきな)曰(いわ)く、卿(きみ)が説の如くなれば、顧慮(こりょ)する処なきが如くなれ共、大洋(たいよう)の事は測(はか)るべからず、往年の地震(じしん)にて、象潟(きさかた)は、変地して景色を失ひ、大坂の天保山は、一夜に出来たりと、皆近年の事なり、かゝる大業は、実地に臨(のぞ)むといへ共、容易に成否を決す可(べ)からず、況(いわん)や絵図面上に於てをや、斯の如き大業を企(くわだ)つるには、万一失敗(しっぱい)ある時は、斯くせんと云、叩堤(ひかえづつみ)の如き工夫があるか、又何様の異変(いへん)にても、失敗なき工夫があり度(たき)物なり、然らざれば、卿が為に贊成(さんせい)する者、共に成仏する事なしとも言ひ難(がた)かるべし、然る時は、山師の誹(そし)りあらん、予先年印旛(いんば)沼、堀割見分の命を蒙(こうむ)りし時、何様の変動に遭遇(そうぐう)しても、決して失敗なき様に工夫せり、たとひ天変はなくとも、水脈(みゃく)土脈を堀切る時は、必意外の事ある物なり、古語に、事前に定まれば躓(つまず)かずと、予が異変ある事を前に定めたるは、異変を恐(おそ)れず、異変に躓かざるの仕法なり、是大業をなすの秘事なり、卿又此工夫なくばあるべからず、然らざれば、第一自(みずか)ら安ぜざるべし、古語に、内に省(かえり)みて疚(やま)しからざれば何をか憂(うれ)ひ何をか懼(おそ)れん、とあり、されば天変をも恐れず、地変をも憂ひざる方法の工夫を先にして、大事はなすべきなり
現代語訳
三河国吉田の郷士に高須和十郎という人がいた。舞坂宿と荒井宿の間に港を造ろうと計画し、絵図面を持って来て成否を尋ねた。翁が言われた。あなたの説どおりなら心配する点はないようだが、大海のことは測り知れない。かつての地震で象潟は地形が変わって景色を失い、大坂の天保山は一夜でできたという。みな近年のことだ。このような大事業は、実地に臨んでも容易に成否を決められない。まして絵図面の上ではなおさらだ。このような大事業を企てるには、万一失敗したときはこうしようという、控え堤のような工夫があるか。またどんな異変があっても失敗しない工夫がほしいものだ。そうでなければ、あなたに賛成する者が、あなたと共に破滅しないとも言い難い。そうなれば山師とのそしりを受けよう。私は先年、印旛沼の堀割の検分を命じられたとき、どんな変動に遭遇しても決して失敗しないよう工夫した。たとえ天変はなくとも、水脈や土脈を掘り切るときは必ず意外なことがあるものだ。古語に「事前に定まれば躓かず」とある。私が異変のあることを前もって想定したのは、異変を恐れず、異変に躓かないための仕法だ。これが大事業を成す秘訣である。あなたにもこの工夫がなくてはならない。そうでなければ、まず自分自身が安心できまい。古語に「内に省みてやましくなければ、何を憂え何を懼れよう」とある。だから天変をも恐れず地変をも憂えない方法の工夫をまず先にして、大事は成すべきである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・虚実篇故に前に備うれば則ち後寡なく、後に備うれば則ち前寡なし。左に備うれば則ち右寡なく、右に備うれば則ち左寡なし。備えざる所無ければ、則ち寡なからざる所無し。寡なき者は人に備うる者なり、衆き者は人をして己に備えしむる者なり。
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葉隠・聞書第一覺りの士というのは、事に逢って仕(し)たるように、前方に、それぞれの仕様(しよう)を吟味し置いて、その時に出合い、仕果(しはた)す者である。不覺の士というのは、その時に至って前方に穿鑿せぬのは、不覺の士と申す。
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尚書・說命中惟れ事を事とするに、乃ち其れ備え有り、備え有れば患い無し。
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孟子・公孫丑章句上孟子曰く、「仁なれば則ち榮え、不仁なれば則ち辱めらる。今辱めらるるを惡んで不仁に居るは、是れ猶ほ濕を惡んで下きに居るがごときなり。如し之を惡まば、徳を貴びて士を尊ぶに如くは莫し。賢者位に在り、能者職に在り、國家閒暇なりとせん。是の時に及びて其の政刑を明らかにせば、大國と雖も、必ず之を畏れん。詩に云う、『天の未だ陰雨せざるに迨(およぶ)んで、彼の桑土を徹(とる)り、牖(ユウ)戶を綢繆す。今此の下民、敢て予を侮どること或らんや。』孔子曰く、『此の詩を為りし者は、其れ道を知れるか。』能く其の國家を治めば、誰か敢て之を侮らん。今國家閒暇なりとせん。是の時に及んで般樂怠敖せば、是れ自ら禍を求むるなり。禍ᐻは己自り之を求めざる者無し。詩に云う『永く言、命を配し、自ら多ᐻを求む。』太甲に曰く、『天の作せる孼は猶ほ違く可し。自ら作せる孼は活く可からず。』此を之れ謂うなり。」
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孫子・始計篇その備えなき所を攻め、その意に出でざる所に出づ。
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孫子・虚実篇その趨かざる所に出で、その意わざる所に趨く。