武備和訓 / 卷二・武芸の誇りが招いた災い下
節短なるが、風に曝れて火色になりたるを、根引にし、長サ四尺八寸に捻切、己が三尺六寸の鞘囊を用竹刀とし、廷上に躍出る、是に續て七人の勇士は、各ゝ木刀を提げて後にしたがふ、芝任枇杷の木刀を八の字のごとくに組み、中央にたてり、淸水芝任が正面にむかへば、其外の七人、周りて八陣の方位のごとくに是を圍み、颯と聲をかくるとひとしく、八方一度に奮迅して打之、淸水四尺の竹刀を苧がらの如くに擧げ、力を揮ひて打之、芝任飛蝶の如くに躍り、左右の二刀をむなしとせず、或は潜りて圍みをぬけ、千變萬化に相闘ふ、淸水竹刀を橫斜に挈、芝任を塀際に追詰、延かけて打けるに、芝任が首の鉢を筋違に、左の肩骨を打碎て、大地に打居ける、劔客大勇力に打れ、立所に息絕たり、執事も興を覺しける所に、一時ばかり後に蘇れり、厥后四五日を經て、遂に逐電せり、古語に、出一言則難追駟馬、口是禍門、舌是斬身刀、深閉口藏舌、身安而所々寧、或一藝に名ある人の歌に、上手とは、外を謗ず、自慢せず、身の及ぬを、恥る人なり、一藝に名ある者は用ひられずと云事なしと、韓退之の云置り、誠の上手名人は、何程自拙しと謙るとも、人必つたなしとせず、遊藝等には興に乘じて自贊すとも、武藝は、言のはびにも誇る事なきを、武道とせり、
新字:節短なるが、風に曝れて火色になりたるを、根引にし、長サ四尺八寸に捻切、己が三尺六寸の鞘嚢を用竹刀とし、廷上に躍出る、是に続て七人の勇士は、各ゝ木刀を提げて後にしたがふ、芝任枇杷の木刀を八の字のごとくに組み、中央にたてり、清水芝任が正面にむかへば、其外の七人、周りて八陣の方位のごとくに是を囲み、颯と声をかくるとひとしく、八方一度に奮迅して打之、清水四尺の竹刀を苧がらの如くに挙げ、力を揮ひて打之、芝任飛蝶の如くに躍り、左右の二刀をむなしとせず、或は潜りて囲みをぬけ、千変万化に相闘ふ、清水竹刀を横斜に挈、芝任を塀際に追詰、延かけて打けるに、芝任が首の鉢を筋違に、左の肩骨を打砕て、大地に打居ける、剣客大勇力に打れ、立所に息絶たり、執事も興を覚しける所に、一時ばかり後に蘇れり、厥后四五日を経て、遂に逐電せり、古語に、出一言則難追駟馬、口是禍門、舌是斬身刀、深閉口蔵舌、身安而所々寧、或一芸に名ある人の歌に、上手とは、外を謗ず、自慢せず、身の及ぬを、恥る人なり、一芸に名ある者は用ひられずと云事なしと、韓退之の云置り、誠の上手名人は、何程自拙しと謙るとも、人必つたなしとせず、遊芸等には興に乗じて自賛すとも、武芸は、言のはびにも誇る事なきを、武道とせり、
書き下し
節短なるが、風に曝れて火色になりたるを、根引にし、長サ四尺八寸に捻切、己が三尺六寸の鞘囊を用竹刀とし、廷上に躍出る、是に續て七人の勇士は、各ゝ木刀を提げて後にしたがふ、芝任枇杷の木刀を八の字のごとくに組み、中央にたてり、淸水芝任が正面にむかへば、其外の七人、周りて八陣の方位のごとくに是を圍み、颯と聲をかくるとひとしく、八方一度に奮迅して打之、淸水四尺の竹刀を苧がらの如くに擧げ、力を揮ひて打之、芝任飛蝶の如くに躍り、左右の二刀をむなしとせず、或は潜りて圍みをぬけ、千變萬化に相闘ふ、淸水竹刀を橫斜に挈、芝任を塀際に追詰、延かけて打けるに、芝任が首の鉢を筋違に、左の肩骨を打碎て、大地に打居ける、劔客大勇力に打れ、立所に息絕たり、執事も興を覺しける所に、一時ばかり後に蘇れり、厥后四五日を經て、遂に逐電せり、古語に、出一言則難追駟馬、口是禍門、舌是斬身刀、深閉口藏舌、身安而所々寧、或一藝に名ある人の歌に、上手とは、外を謗ず、自慢せず、身の及ぬを、恥る人なり、一藝に名ある者は用ひられずと云事なしと、韓退之の云置り、誠の上手名人は、何程自拙しと謙るとも、人必つたなしとせず、遊藝等には興に乘じて自贊すとも、武藝は、言のはびにも誇る事なきを、武道とせり、
現代語訳
(前章の続きです)節の短いものが風にさらされて火色(赤みを帯びた色)になったのを、根引きにして、長さ四尺八寸に捻じ切り、自分の三尺六寸の鞘袋を竹刀として、庭に躍り出ました。これに続いて七人の勇士が、それぞれ木刀を提げて後に従いました。芝任は枇杷の木刀を八の字のように組んで、中央に立ちました。清水が芝任の正面に向かい、その他の七人は周りを巡り、八陣の方位のように芝任を囲み、さっと声をかけると同時に、八方一度に奮い立って打ちかかりました。清水は四尺の竹刀を麻幹のように振り上げ、力を振るって打ちました。芝任は飛ぶ蝶のように躍り、左右の二刀をむなしくせず、あるいは潜って囲みを抜け、千変万化に戦いました。清水は竹刀を横斜めに携え、芝任を塀際に追い詰め、延びかかって打ったところ、芝任の首の付け根を斜めに、左の肩骨を打ち砕いて、大地に打ち伏せました。剣客は大勇力に打たれ、その場で息が絶えました。執事も興ざめしていたところ、一時(約二時間)ほどして蘇りました。その後四、五日経って、ついに逐電(逃亡)しました。古語に、「一たび言葉が出れば、四頭立ての馬でも追いつけない」とあり、また「口は禍の門、舌は身を斬る刀、深く口を閉ざし舌を蔵せば、身安らかにしてどこでも落ち着く」といいます。ある一芸に名のある人の歌に、「上手とは、外を謗らず、自慢せず、身の及ばぬを恥じる人なり」とあります。「一芸に名のある者は、用いられないということがない」と韓退之(韓愈)が言い置きました。まことの上手・名人は、どれほど自分は拙いとへりくだっても、人は必ず拙いとは思いません。遊芸などでは興に乗じて自賛しても、武芸は言葉の端にも誇らないのを武道としました。
解説

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