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弁名 / 文質體用本末

又如禮器曰。有以文爲貴者。有以素爲貴者。是論說周公所以制禮之意。而言周禮有此數者不同也。又如曰禮有本有文。是亦論說所以制禮之意。而就一禮言之。本者禮所由起也。文者脩飾之以成禮者也。假如射。其所由起。在弧矢之利以威天下。是本也。後來聖人以禮樂文之。是文也。射不主皮。則聖人之意。專在習禮樂以成德。而其失本意與否。則有不暇問者焉。如燕饗之禮。其始亦唯在飮食之耳。後來聖人以禮樂文之。則酒淸人渴而不敢飮也。肉乾人饑而不敢食也。其意非專爲飮食也。是所謂文也。是聖人之意。全在文而不在本焉。後世儒者狃老莊之說。貴精賤粗之見。乃以本爲體。以文爲用。又不知古言直以本爲質。可謂謬矣。

新字:又如礼器曰。有以文為貴者。有以素為貴者。是論説周公所以制礼之意。而言周礼有此数者不同也。又如曰礼有本有文。是亦論説所以制礼之意。而就一礼言之。本者礼所由起也。文者脩飾之以成礼者也。仮如射。其所由起。在弧矢之利以威天下。是本也。後来聖人以礼楽文之。是文也。射不主皮。則聖人之意。専在習礼楽以成徳。而其失本意与否。則有不暇問者焉。如燕饗之礼。其始亦唯在飲食之耳。後来聖人以礼楽文之。則酒清人渇而不敢飲也。肉乾人饑而不敢食也。其意非専為飲食也。是所謂文也。是聖人之意。全在文而不在本焉。後世儒者狃老荘之説。貴精賤粗之見。乃以本為体。以文為用。又不知古言直以本為質。可謂謬矣。

書き下し

又礼器に曰く、「文を以て貴しと為す者有り、素を以て貴しと為す者有り」と。是れ周公の礼を制する所以の意を論説して、周礼に此の数者の同じからざる有るを言ふなり。又「礼に本有り文有り」と曰ふが如き、是れ亦た礼を制する所以の意を論説して、一礼に就きて之を言ふ。本とは礼の由りて起る所なり。文とは之を脩飾して以て礼を成す者なり。仮如へば射、其の由りて起る所は、弧矢の利以て天下を威すに在り、是れ本なり。後来聖人礼楽を以て之を文る、是れ文なり。射は皮を主とせず、則ち聖人の意は、専ら礼楽を習ひて以て徳を成すに在りて、其の本意を失ふと否とは、則ち問ふに暇あらざる者有り。燕饗の礼の如きも、其の始めは亦た唯だ之を飲食するに在るのみ。後来聖人礼楽を以て之を文れば、則ち酒清く人渇すれども敢へて飲まず、肉乾き人饑うれども敢へて食はず。其の意専ら飲食の為に非ざるなり。是れ所謂文なり。是れ聖人の意は、全く文に在りて本に在らず。後世の儒者は老荘の説に狃れ、精を貴び粗を賤しむの見ありて、乃ち本を以て体と為し、文を以て用と為す。又古言の直に本を以て質と為すを知らず。謬れりと謂ふべし。

現代語訳

また『礼記』礼器に「文(飾り)を貴いとするものがあり、素(飾らないこと)を貴いとするものがある」という。これは周公が礼を定めた意図を論評して、周の礼にこうした数通りの違いがあることを言ったものである。また「礼には本があり文がある」というのも、礼を定めた意図を論評して、一つの礼について言ったものである。本とは礼が起こったもとである。文とはそれを飾って礼として完成させたものである。たとえば射礼は、そのもとは弓矢の利によって天下を威圧することにあった。これが本である。後に聖人が礼楽でこれを飾った。これが文である。「射は的の皮を射抜くことを主としない」とあるように、聖人の意図はもっぱら礼楽を習って徳を成すことにあり、本来の目的を失うかどうかは問題にしていない。宴会の礼も、始めはただ飲み食いするためだけのものだった。後に聖人が礼楽で飾ると、酒が澄んでいて人が喉が渇いていても飲まず、肉が乾いていて人が飢えていても食べない。その意図はもっぱら飲食のためではない。これがいわゆる文である。つまり聖人の意図はまったく文にあって、本にはない。後世の儒者は老荘の説に慣れ、精微を尊び粗いものを卑しむ見方から、本を体とし文を用とした。また古い言葉がまさに本を質と呼んでいることも知らない。誤りというべきである。

解説

礼の「本」と「文」を、徂徠は射礼と宴会の礼を例に説く。射はもとは武力の技、宴はもとは飲み食いだが、聖人は礼楽で飾り、技や飲食とは別の、徳を成す場に変えた。聖人の意図は本ではなく文にあり、本を体、文を用とする後世の説は老荘風の精粗の見方にすぎないという。会議や式典を「中身がない形式」と切り捨てる前に、その形式が人を育て関係を整える働きを持つことを考えさせる一則である。

この章句が説くこと

文本礼礼楽体用老荘

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