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弁名 / 學

且學之爲言効。本言効之音轉爲學之音已。然効學一分。豈可卽以學爲効乎。徒以字義爲解。苟使無先王敎法猶之可也。今舍先王敎法。而欲從其所好。乃旁援字義爲之解。適足以見其不學之過已。且孔子之所傳。非六經乎。當其時。亦安知有所謂論語孟子者哉。葢宋儒以論語孟子合諸大學中庸。命曰四書。加以小學近思錄之類。以立一家之學。其意既已弁髦六經。尙且有所忌憚。而未敢明言之。今觀世之傳其學者。可以見已。

新字:且学之為言効。本言効之音転為学之音已。然効学一分。豈可即以学為効乎。徒以字義為解。苟使無先王教法猶之可也。今舎先王教法。而欲従其所好。乃旁援字義為之解。適足以見其不学之過已。且孔子之所伝。非六経乎。当其時。亦安知有所謂論語孟子者哉。葢宋儒以論語孟子合諸大学中庸。命曰四書。加以小学近思録之類。以立一家之学。其意既已弁髦六経。尚且有所忌憚。而未敢明言之。今観世之伝其学者。可以見已。

書き下し

且つ学の言たる効なりとは、本と効の音転じて学の音と為るを言ふのみ。然れども効と学とは一たび分る、豈に即ち学を以て効と為すべけんや。徒らに字義を以て解を為すは、苟くも先王の教法無からしめば猶ほ之れ可なり。今先王の教法を舎てて、其の好む所に従はんと欲し、乃ち旁ら字義を援きて之が解を為す。適に以て其の不学の過を見るに足るのみ。且つ孔子の伝ふる所は、六経に非ずや。其の時に当りて、亦た安んぞ所謂論語・孟子なる者有るを知らんや。蓋し宋儒は論語・孟子を以て諸を大学・中庸に合せ、命じて四書と曰ひ、加ふるに小学・近思録の類を以てし、以て一家の学を立つ。其の意既已に六経を弁髦にす。尚ほ且つ忌憚する所有りて、未だ敢へて明らかに之を言はず。今世の其の学を伝ふる者を観れば、以て見るべきのみ。

現代語訳

そもそも「学とは効である」というのは、もともと「効」の音が転じて「学」の音になったということにすぎない。しかし効と学はいったん別の語に分かれたのだから、どうして学をそのまま効としてよかろうか。ただ字義で解釈するのは、もし先王の教え方が伝わっていないのなら、まだよい。いま先王の教え方を捨てて自分の好みに従おうとし、わきから字義を引いて解釈している。それはまさに学んでいないという過ちを示すだけである。それに孔子が伝えたのは六経ではなかったか。その当時、『論語』『孟子』などというものがあるとどうして知っていようか。思うに宋の儒者は『論語』『孟子』を『大学』『中庸』に合わせて「四書」と名づけ、さらに『小学』『近思録』の類を加えて一家の学を立てた。その意図はすでに六経を(元服後に捨てる冠のように)無用のものとしている。それでもまだはばかるところがあって、はっきりとは言わなかった。いま世間でその学を伝える者を見れば、それがわかる。

解説

字の音が通じるからといって意味まで同じとはいえない。徂徠は、先王の教え方が伝わっているのにそれを捨て、字義のこじつけで学を定義するのは学んでいない証拠だと手厳しい。さらに矛先は四書中心の朱子学体系に向かう。孔子が伝えたのは六経であり、四書や『近思録』で一家の学を立てた宋儒は、事実上六経を棚上げしたというのである。原典を差し置いて解説書や要約で体系を組む危うさは、マニュアルの要約版だけが流通する組織にも見られる。

この章句が説くこと

六経四書宋儒字義学問朱子学

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