弁名 / 極
漢儒以兩儀爲天地。亦其意。而傅會以乾元坤元。故曰太極者元氣也。夫乾元坤元。傳既分而言之。豈有一元氣乎。且一元氣渾渾爾。何以得謂之極哉。凡古所謂極者。皆所以示民也。必不然矣。宋儒貴精賤粗。故立理氣之說。而以理爲太極。然大傳三極之文。其謂之何。其妄可知已。大氐極皆以易見者言之。使人不惑。而諸老先生乃以其高妙難見者言之。使人惑。亦不知古言故也。
新字:漢儒以両儀為天地。亦其意。而傅会以乾元坤元。故曰太極者元気也。夫乾元坤元。伝既分而言之。豈有一元気乎。且一元気渾渾爾。何以得謂之極哉。凡古所謂極者。皆所以示民也。必不然矣。宋儒貴精賤粗。故立理気之説。而以理為太極。然大伝三極之文。其謂之何。其妄可知已。大氐極皆以易見者言之。使人不惑。而諸老先生乃以其高妙難見者言之。使人惑。亦不知古言故也。
書き下し
漢儒の両儀を以て天地と為すも、亦た其の意なり。而るに傅会するに乾元坤元を以てす、故に「太極とは元気なり」と曰ふ。夫れ乾元坤元は、伝既に分ちて之を言ふ、豈に一元気有らんや。且つ一元気は渾渾爾たり、何を以てか之を極と謂ふを得んや。凡そ古の所謂極なる者は、皆民に示す所以なり。必ず然らず。宋儒は精を貴び粗を賤しむ、故に理気の説を立てて、理を以て太極と為す。然らば大伝の三極の文、其れ之を何と謂はん。其の妄知るべきのみ。大氐極は皆見易き者を以て之を言ひ、人をして惑はざらしむ。而るに諸老先生は乃ち其の高妙にして見難き者を以て之を言ひ、人をして惑はしむ。亦た古言を知らざるが故なり。
現代語訳
漢代の儒者が両儀を天地としたのも、その意味(陰陽の区別)からである。ところが乾元・坤元(天の根源・地の根源)にこじつけたため、「太極とは元気である」と言った。だが乾元と坤元は、易の伝がすでに分けて言っている。どうして一つの元気などあろうか。しかも一つの元気は混沌としたものであり、どうしてそれを「極」と呼べようか。およそ古くいう極とは、みな民に示すためのものである。(元気説は)決してそうではない。宋代の儒者は精微なものを尊び粗いものを卑しんだので、理気の説を立てて、理を太極とした。それなら繋辞伝の「三極」の文はどう説明するのか。その誤りは明らかである。だいたい極とは、みな見やすいものについて言い、人を惑わせないようにするものである。ところが(宋の)諸先生は、高妙で見えにくいものについてそれを言い、人を惑わせた。これも古い言葉を知らなかったからである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』法儀然らば則ち奚を以て治法を為して可ならんか。故に曰く、天に法るに若くは莫し、と。天の行いは廣くして私無く、其の施しは厚くして徳とせず、其の明るきは久しくして衰えず。故に聖王は之に法る。既に天を以て法と為さば、動作有為には、必ず天に度り、天の欲する所は則ち之を為し、天の欲せざる所は則ち止む。
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『墨子』尚賢下子墨子言いて曰く、「天下の王公大人は皆な其の國家の富み、人民の衆く、刑法の治まるを欲す。然れども尚賢を以て政を為して其の國家百姓を治むるを識らず。王公大人、本より尚賢の政を為すの本を失えるなり。若し茍くも王公大人、本より尚賢の政を為すの本を失わば、則ち物を舉げて之に示す毋くんばある能わざらんや。今、若し一諸侯、此に有りて、國家に政を為すや、曰く、『凡そ我が國の能く射御する士は、我れ將に之を賞し貴くせんとす。射御する能わざる士は、我れ將に之を罪し賤しくせんとす』と。若の國の士に問う、孰か喜び孰か懼れんと。我れ以て必ず能く射御する士は喜び、射御する能わざる士は懼れんと為す。我れ賞して因りて之を誘わん、曰く、『凡そ我が國の忠信の士は、我れ將に之を賞し貴くせんとす。忠信ならざる士は、我れ將に之を罪し賤しくせんとす』と。」
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『墨子』法儀子墨子曰く、天下の事を從むる者は、以て法儀無かる可からず。法儀無くして其の事能く成る者は、有ること無し。士の將相為る者に至ると雖も皆な法有り、百工の事を從むる者に至ると雖も亦た皆な法有り。百工は方を為すに矩を以てし、圜を為すに規を以てし、直きは繩を以てし、正しきは懸を以てす。巧工も不巧工も無く、皆な此の四者を以て法と為す。巧なる者は能く之に中り、不巧なる者は中つる能わずと雖も、放依して以て事を從めば、猶お已に逾えたり。故に百工の事を從むるや、皆な法度有り。今、大なる者は天下を治め、其の次は大國を治むるに、而も法度無し。此れ百工の辯なるに若かざるなり。
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『墨子』法儀然らば則ち奚を以て治法を為して可ならんか。當に皆な其の父母に法らば奚若ん。天下の父母為る者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の父母に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。當に皆な其の學に法らば奚若ん。天下の學を為す者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の學に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。當に皆な其の君に法らば奚若ん。天下の君為る者は衆けれども、仁なる者は寡し。若し皆な其の君に法らば、此の法は不仁なり。法、不仁なれば、以て法と為す可からず。故に父母・學・君の三者は、以て治法と為す可き莫し。
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『墨子』尚賢上是の故に古者、聖王の政を為すや言いて曰く、「義ならざれば富まさず、義ならざれば貴くせず、義ならざれば親しまず、義ならざれば近づけず」と。是を以て國の富貴の人、之を聞きて、皆な退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は富貴なり。今、上、義を舉ぐるに貧賤を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。親しき者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は親なり。今、上、義を舉ぐるに親疎を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。近き者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我が恃む所の者は近なり。今、上、義を舉ぐるに近を辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。逺き者、之を聞き、亦た退きて謀りて曰く、「始め我れ逺きを以て恃む無しと為す。今、上、義を舉ぐるに逺きを辟けず。然らば則ち我れ義を為さざる可からず」と。逺鄙郊外の臣、門庭の庶子、國中の衆、四鄙の氓人に逮び至るまで、之を聞きて皆な競いて義を為す。
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『墨子』尚同上子墨子言いて曰く、古者、民、始めて生じて未だ刑政有らざる時、盖し其の語、人ごとに義を異にす。是を以て一人なれば則ち一義、二人なれば則ち二義、十人なれば則ち十義。其の人、滋いよ衆ければ、其の義と謂う所の者も亦た滋いよ衆し。是を以て人は其の義を是として、以て人の義を非とす。故に交ごも相い非とし是とするなり。内なる者は父子兄弟、怨惡を作し、離散して相い和合する能わず。天下の百姓、皆な水火毒藥を以て相い虧害し、餘力有るに至るも以て相い勞う能わず。餘財を府列するも以て相い分かたず、良道を隠匿するも以て相い教えず。天下の亂るること、禽獸の若く然り。
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