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弁名 / 極

極者。謂先王立是。以爲民之所準據者也。詩曰。思文后稷。克配彼天。立我烝民。莫匪爾極。又曰。商邑翼翼。四方之極。大學曰。是故君子無所不用其極。周禮曰。以爲民極。洪範曰。皇建其有極。祭義曰。因物之精。制爲之極。皆是也。漢儒訓極爲中。葢先王建之。以使賢者俯就。而不肖者企而及之。故極有中之義。非直訓中也。朱子以爲至極之義。是其意謂人君躬行人倫之極。以爲萬民標準也。先王之道。立人所皆能者爲敎。豈至極之義哉。祇人所皆能者莫至焉。則亦在所見如何耳。然極字之義。以準據爲主意。它皆傍意。如北極。亦人所以爲準據也。

新字:極者。謂先王立是。以為民之所準拠者也。詩曰。思文后稷。克配彼天。立我烝民。莫匪爾極。又曰。商邑翼翼。四方之極。大学曰。是故君子無所不用其極。周礼曰。以為民極。洪範曰。皇建其有極。祭義曰。因物之精。制為之極。皆是也。漢儒訓極為中。葢先王建之。以使賢者俯就。而不肖者企而及之。故極有中之義。非直訓中也。朱子以為至極之義。是其意謂人君躬行人倫之極。以為万民標準也。先王之道。立人所皆能者為教。豈至極之義哉。祇人所皆能者莫至焉。則亦在所見如何耳。然極字之義。以準拠為主意。它皆傍意。如北極。亦人所以為準拠也。

書き下し

極とは、先王是を立てて、以て民の準拠する所と為す者を謂ふなり。詩に曰く、「思に文なる后稷、克く彼の天に配す。我が烝民を立つる、爾の極に匪ざる莫し」と。又曰く、「商邑翼翼たり、四方の極」と。大学に曰く、「是の故に君子は其の極を用ひざる所無し」と。周礼に曰く、「以て民の極と為す」と。洪範に曰く、「皇其の有極を建つ」と。祭義に曰く、「物の精に因りて、制して之が極と為す」と。皆是なり。漢儒は極を訓じて中と為す。蓋し先王之を建て、以て賢者をして俯して就かしめ、不肖者をして企てて之に及ばしむ。故に極に中の義有り、直ちに中と訓ずるに非ざるなり。朱子は以て至極の義と為す。是れ其の意、人君躬ら人倫の極を行ひて、以て万民の標準と為すを謂ふなり。先王の道は、人の皆能くする所の者を立てて教と為す。豈に至極の義ならんや。祇だ人の皆能くする所の者は焉より至れるは莫しといはば、則ち亦た見る所如何に在るのみ。然れども極字の義は、準拠を以て主意と為し、它は皆傍意なり。北極の如きも、亦た人の以て準拠と為す所なり。

現代語訳

「極」とは、先王がこれを立てて、民が拠り所とする基準としたものをいう。『詩経』に「文徳ある后稷は、よく天に並び立つ。わが民を立たせたのは、すべてあなたの定めた極(基準)による」とある。また「商の都は整然として、四方の極(手本)である」とある。『大学』に「だから君子はその極を用いないところがない」、『周礼』に「民の極とする」、『書経』洪範に「君主がその極を建てる」、『礼記』祭義に「物の精髄に基づいて、定めて極とする」とある。みなこの意味である。漢代の儒者は極を「中」と訓じた。思うに先王がこれを建てたのは、賢い者には身をかがめて就かせ、及ばない者には背伸びして届かせるためであった。だから極には中の意味があるのであって、そのまま「中」と訓じるのではない。朱子はこれを「至極(この上ない極み)」の意味とした。その意は、君主が自ら人倫の極みを実践して万民の手本とする、ということである。しかし先王の道は、人が誰でもできることを立てて教えとしたのであって、どうして「至極」の意味であろうか。ただ「誰もができることほど至れるものはない」と言うなら、それは見方次第にすぎない。しかし極の字の意味は「拠り所とする基準」が主であり、ほかはみな派生の意味である。北極(北極星)のようなものも、人が拠り所とするものである。

解説

徂徠は「極」を、先王が民のために立てた拠り所、つまり基準と定める。『詩経』『周礼』『書経』など古い用例を並べて意味を固め、漢儒の「中」は派生義、朱子の「至極」は誤読だと退ける。朱子のように極を「この上ない高み」と読めば、道は君主の超人的な徳の話になってしまう。だが先王の道は、誰でも実行できることを基準として示したものだというのが徂徠の要点である。組織の行動指針も同じで、届かない理想を掲げるより、皆が拠り所にできる基準を示すほうが人を動かす。

この章句が説くこと

極準拠先王基準中朱子

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