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弁名 / 理氣人欲

夫道者聖人所立。豈容以見道言乎。又豈容與老氏對言乎。夫道者所以安民也。又豈容以生生化化言乎。理從玉從里。亦倉頡制字時。且以此便記憶耳。豈容泥乎。且道亦本諸道路。豈有死活乎。祇道主行之。理主見之。老莊及宋儒皆主其所見。故喜言理耳。若以死活爲說。則老莊亦言道德。其謂之何。要之理豈容廢乎。苟遵聖人之敎。以禮義爲之極。則理豈足以爲病乎。仁齋先生可謂懲羹吹韲已。學者思諸。

新字:夫道者聖人所立。豈容以見道言乎。又豈容与老氏対言乎。夫道者所以安民也。又豈容以生生化化言乎。理従玉従里。亦倉頡制字時。且以此便記憶耳。豈容泥乎。且道亦本諸道路。豈有死活乎。祇道主行之。理主見之。老荘及宋儒皆主其所見。故喜言理耳。若以死活為説。則老荘亦言道徳。其謂之何。要之理豈容廃乎。苟遵聖人之教。以礼義為之極。則理豈足以為病乎。仁斎先生可謂懲羹吹韲已。学者思諸。

書き下し

夫れ道は聖人の立つる所、豈に道を見るを以て言ふを容れんや。又た豈に老氏と対言するを容れんや。夫れ道は民を安んずる所以なり。又た豈に生生化化を以て言ふを容れんや。理の玉に従ひ里に従ふは、亦た倉頡字を制する時、且く此を以て記憶に便するのみ。豈に泥むを容れんや。且つ道も亦た諸を道路に本づく。豈に死活有らんや。祇だ道は之を行ふを主とし、理は之を見るを主とす。老荘及び宋儒は皆其の見る所を主とす。故に喜んで理を言ふのみ。若し死活を以て説を為さば、則ち老荘も亦た道徳を言ふ、其れ之を何と謂はん。之を要するに理豈に廃するを容れんや。苟も聖人の教に遵ひ、礼義を以て之が極と為せば、則ち理豈に以て病と為すに足らんや。仁斎先生は羹に懲りて韲を吹くと謂ふべきのみ。学者諸を思へ。

現代語訳

そもそも道は聖人が立てたものである。どうして「道を見る」などと言えようか。また、どうして老子と並べて論じられようか。道とは民を安んじるためのものである。どうして「生じ変化してやまない」などと言えようか。理が玉と里に従うのも、倉頡が文字を作ったとき、ひとまずそれで覚えやすくしただけで、どうしてこだわってよいだろうか。それに道もまた道路にもとづく字である。どうして死活があろうか。ただ、道は行うことを主とし、理は見ることを主とする。老荘も宋儒もみな自分が見るものを主とするので、好んで理を言うのである。もし死活で説を立てるなら、老荘も道徳を言っているのを何と言うのか。要するに、理をどうして捨ててよいだろうか。聖人の教えに従い、礼義を基準とすれば、理は病とするに足りない。仁斎先生は、熱い吸い物でやけどしたのに懲りて冷たい和え物まで吹いて冷ます、と言うべきである。学ぶ者はよく考えよ。

解説

徂徠は仁斎の議論を一つずつ崩す。道は聖人が民を安んじるために立てたもので、見るものでも天地の生成でもない。字形から意味を引き出すのも、文字の成り立ちに拘泥するだけだ。道と理の本当の違いは、道は行うもの、理は見るものという点にある。理そのものを捨てる必要はなく、礼義を基準に据えれば理は害にならない。仁斎は朱子学に懲りすぎたというのである。前の失敗に懲りて道具そのものを捨てるのではなく、使い方の基準を正すべきだという教えは、仕組みづくりにも当てはまる。

この章句が説くこと

道理礼義安民仁斎

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