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弁名 / 心志意

宋儒曰。聖人之心。如明鏡止水。是不知心之爲動物。仁齋先生駁之者是矣。又曰。廓然大公。物來順應。是或一道也。如不逆詐。不億不信。亦是意。然專以此爲至。則亦明鏡止水之見耳。如虛受人。亦以受人言納人諫時言之。虛者謂虛其心而不有一物也。豈語其常哉。仁齋先生以無私心爲虛。亦非矣。假使無私心。當其受人言。先有所見橫其胸中。則必不入。故當其受人言。則必心不有一物。是其道也。豈無私心之謂乎。

新字:宋儒曰。聖人之心。如明鏡止水。是不知心之為動物。仁斎先生駁之者是矣。又曰。廓然大公。物来順応。是或一道也。如不逆詐。不億不信。亦是意。然専以此為至。則亦明鏡止水之見耳。如虚受人。亦以受人言納人諫時言之。虚者謂虚其心而不有一物也。豈語其常哉。仁斎先生以無私心為虚。亦非矣。仮使無私心。当其受人言。先有所見横其胸中。則必不入。故当其受人言。則必心不有一物。是其道也。豈無私心之謂乎。

書き下し

宋儒曰く、「聖人の心は、明鏡止水の如し」と。是れ心の動物為るを知らず。仁斎先生之を駁する者は是なり。又た曰く、「廓然として大公、物来たりて順応す」と。是れ或いは一道なり。詐を逆へず、信ぜられざるを億らずの如きも、亦た是の意なり。然れども専ら此を以て至りと為さば、則ち亦た明鏡止水の見のみ。虚にして人を受くの如きも、亦た人の言を受け人の諫めを納るる時を以て之を言ふ。虚は其の心を虚しくして一物をも有せざるを謂ふなり。豈に其の常を語らんや。仁斎先生私心無きを以て虚と為すも、亦た非なり。仮使私心無くとも、其の人の言を受くるに当たりて、先に見る所有りて其の胸中に横たはらば、則ち必ず入らず。故に其の人の言を受くるに当たりては、則ち必ず心に一物をも有せず。是れ其の道なり。豈に私心無きの謂ならんや。

現代語訳

宋儒は「聖人の心は、曇りのない鏡や静まった水のようだ」と言った。これは心が動くものであることを知らないのである。仁斎先生がこれを批判したのは正しい。また宋儒は「からりと広く公平で、物が来れば素直に応じる」とも言った。これは一つの道ではある。「人が欺くのではと先回りして疑わず、信じてもらえないのではと推し量らない」というのも、この意味である。しかしもっぱらこれを最上とすれば、やはり明鏡止水の見方にすぎない。「虚にして人を受け入れる」というのも、人の言葉を受け入れ、諫めを聞き入れる時について言ったものである。虚とは、心を空にして一物も持たないことである。どうしてふだんの心のありようを言ったものであろうか。仁斎先生が私心のないことを虚としたのも誤りである。たとえ私心がなくても、人の言葉を受けるときに、先に持っている見解が胸の中に横たわっていれば、必ず入ってこない。だから人の言葉を受けるときは、必ず心に一物も持たないようにする。それがその道である。どうして私心がないという意味であろうか。

解説

「明鏡止水」は宋学が描いた聖人の心の理想像である。徂徠は、心は本来動くものだとして、常に静かな鏡のような心を理想とする見方を退ける。易の「虚にして人を受く」の虚も、常に空であれという教えではなく、人の意見や諫めを聞くその時に、先入観を脇に置くことだと限定する。仁斎のように私心がないことと解するのも違う。私心がなくても、自分の見解で胸がふさがっていれば他人の言葉は入らない。会議で部下の提案を聞くとき、まず自分の答えを脇に置けているかが問われている。

この章句が説くこと

心虚明鏡止水諫め宋儒仁斎

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