弁名 / 心志意
惻隱羞惡辭讓是非之心爲四端。端猶言一端也。亦謂其微者已。朱子以爲端緒。其意謂仁義禮智全於性。而四者乃其端緒發見於外也。是佛書覆藏心之說耳。仁齋先生以爲端本。其意據孟子擴充之言。而謂有引而伸之意。豈然乎。孟子亦曰。養性。是自有先王敎法。養以成其德已。如其擴充之言。亦如曰天昭昭之多也。論說之言爲爾。雖孟子豈必求擴充四端之心以成仁義禮智哉。而固泥其擴充之言。以此爲工夫。遂有端本之說。亦非矣。
新字:惻隠羞悪辞譲是非之心為四端。端猶言一端也。亦謂其微者已。朱子以為端緒。其意謂仁義礼智全於性。而四者乃其端緒発見於外也。是仏書覆蔵心之説耳。仁斎先生以為端本。其意拠孟子擴充之言。而謂有引而伸之意。豈然乎。孟子亦曰。養性。是自有先王教法。養以成其徳已。如其擴充之言。亦如曰天昭昭之多也。論説之言為爾。雖孟子豈必求擴充四端之心以成仁義礼智哉。而固泥其擴充之言。以此為工夫。遂有端本之説。亦非矣。
書き下し
惻隠羞悪辞譲是非の心を四端と為す。端は猶ほ一端と言ふがごときなり。亦た其の微なる者を謂ふのみ。朱子以て端緒と為す。其の意、仁義礼智性に全くして、四者は乃ち其の端緒の外に発見すと謂ふなり。是れ仏書の覆蔵心の説のみ。仁斎先生以て端本と為す。其の意、孟子の拡充の言に拠りて、引きて之を伸ぶるの意有りと謂ふ。豈に然らんや。孟子も亦た曰く、「性を養ふ」と。是れ自ら先王の教法有り、養ひて以て其の徳を成すのみ。其の拡充の言の如きも、亦た「天は昭昭の多きなり」と曰ふが如く、論説の言為るのみ。孟子と雖も、豈に必ずしも四端の心を拡充して以て仁義礼智を成さんことを求めんや。而るを固く其の拡充の言に泥みて、此を以て工夫と為し、遂に端本の説有り。亦た非なり。
現代語訳
惻隠・羞悪・辞譲・是非の心を四端とする。「端」は「一端」というのと同じで、そのかすかなものを言うにすぎない。朱子は「端緒(いとぐち)」とした。その意味は、仁義礼智は性の中に完全にそなわっていて、四つの心はそのいとぐちが外に現れたものだ、というのである。これは仏典の「覆蔵心」の説である。仁斎先生は「端本(もと)」とした。その意味は、孟子の「拡充(押し広げる)」という言葉にもとづき、引き伸ばしていく意があるというのである。どうしてそうであろうか。孟子もまた「性を養う」と言った。これは先王の教えの方法があって、それによって養い徳を成すということである。拡充という言葉も、「天は小さな明かりが多く集まったもの」と言うのと同じく、論説の言葉にすぎない。孟子であっても、必ず四端の心を押し広げて仁義礼智を成そうとしたであろうか。それなのに拡充の言葉に固く執着してこれを工夫とし、ついに端本の説ができた。これも誤りである。
解説
この章句が説くこと
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