弁名 / 仁
殊不知仁者德也。非性也。況理乎。仁以愛之。特言其一端耳。安得盡於仁乎。且孔子所謂愛人者。謂爲民父母也。苟非安民。烏足以爲民父母乎。宋儒主心。主心而語愛。則釋迦亦仁人耳。其無安民之德。則非吾所謂仁也。氣質可變乎。人欲可盡乎。何德非心。苟以仁爲全德。豈有所謂衆德乎。專言偏言。豈非妄乎。皆肆言其理而未睹夫道之失也。
新字:殊不知仁者徳也。非性也。況理乎。仁以愛之。特言其一端耳。安得尽於仁乎。且孔子所謂愛人者。謂為民父母也。苟非安民。烏足以為民父母乎。宋儒主心。主心而語愛。則釈迦亦仁人耳。其無安民之徳。則非吾所謂仁也。気質可変乎。人欲可尽乎。何徳非心。苟以仁為全徳。豈有所謂衆徳乎。専言偏言。豈非妄乎。皆肆言其理而未睹夫道之失也。
書き下し
殊に知らず、仁なる者は徳なり、性に非ざるなり。況んや理をや。仁の以て之を愛するは、特だ其の一端を言ふのみ。安んぞ仁を尽くすを得んや。且つ孔子の所謂人を愛すとは、民の父母と為るを謂ふなり。苟も民を安んずるに非ずんば、烏んぞ以て民の父母と為すに足らんや。宋儒は心を主とす。心を主として愛を語れば、則ち釈迦も亦た仁人のみ。其の安民の徳無ければ、則ち吾が所謂仁に非ざるなり。気質変ずべけんや。人欲尽くすべけんや。何れの徳か心に非ざらん。苟も仁を以て全徳と為さば、豈に所謂衆徳有らんや。専言偏言、豈に妄に非ずや。皆肆に其の理を言ひて未だ夫の道を睹ざるの失なり。
現代語訳
仁は徳であって性ではないことを、まったく知らないのである。まして理であるはずがない。仁が人を愛するというのは、その一端を言ったにすぎない。それでどうして仁を言い尽くせようか。しかも孔子の言う「人を愛する」とは、民の父母となることを言う。民を安らかにするのでなければ、どうして民の父母と言えようか。宋儒は心を主とする。心を主として愛を語るなら、釈迦もまた仁の人ということになる。民を安らかにする徳がなければ、私の言う仁ではない。気質は変えられるだろうか。人欲は尽くせるだろうか。どの徳も心に関わらないものはない。もし仁を全き徳とするなら、どうして多くの徳があると言えようか。専ら言う、偏って言う、などとはでたらめではないか。みな勝手に理を語って、道を見ていない誤りである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『大和俗訓』巻之四・心術下一心に主なければ、事をつとむる時早過ぎてさわがしく、又おそ過ぎて怠となり、或は事に先だちてあやまち、或は事におくれて間にあはず。主あれば心つねに定りて、遅速なく、よきほどなる故、あやまち少なし。一徐孝節といふ人、幼少より物を殺すことをいましめ、蟻のあつまり居る処をも、ふみころさんことをおそれ、よぎて道をゆけり。其心善なりといふべし。此心をおしひろめて、まづ父母兄弟を愛し人倫に及ぼし、次に万物に及ぼさば、仁愛の道ひろく行はるべし。善心をおしひろむる工夫、常にかくの如くすべし。夫生すことを好み、殺すことをにくむは、天の御心なり。天の物をあはれみ給へる御心をうけて、人の心とする所、即仁なり。不仁の人は、人をめぐみ、物をあはれむに心なくして、殺すことを好む。かくの如く不仁ならば、他の才多しといへども、天道にそむき、人道にかけて、見るに足らず。
-
『都鄙問答』卷之一・播州ノ人學問ノ事ヲ問ノ段うるほすと云ことなり。身をうるほすは、心よりうるほすことを知るべし。孟子の一書も、心上より説来る。心を知る時は、志強義理照して、以て上達すべし。此心を知ずば、昏味とくらく放にして、学問に従と云とも、発明する所あるべからず。医書に、以手足痿痺為不仁。仁者は、天地万物を以て、一体の心となす。己に非と云ことなし。天地万物を己とすれば、至ざる所なし。若心を知らずば、天地と己と別々にして、気已に貫かず、手足の痿痺病人の如し。聖人は、我が心を以て天地万物を貫。凡て師たるもの、この心を知らずば、何を法として教、人の心を正んや。然るを師家に立人、心を知らずと云。夫は汝の在所などにて、書物を能読、文字を知て教れば、
-
『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らずしかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とはほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は「己の欲せざる所を人に施すなかれ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致すと言える言のごとく、この二者も終局の目的はついに一致するものであろうと考える。
-
論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。
-
『近思録』巻1 道体復の卦に「七日にして来復す」と言ふが如き、其の間元より断続せず、陽已に復生す。「物極まれば必ず返る」。其の理須らく此の如くなるべし。生有れば便ち死有り、始め有れば便ち終はり有り。明道先生曰く、天地の間、只だ一箇の感と応と有るのみ。更に甚(なん)の事か有らん。仁を問ふ。伊川先生曰く、此れ諸公自ら之を思ふに在り。聖賢の仁を言ふ所の処を将て、類聚して之を観、体認し出だし来たれ。孟子曰く、「惻隠の心は仁なり」と。後人遂に愛を以て仁と為す。愛は自ら是れ情、仁は自ら是れ性、豈に専ら愛を以て仁と為すべけんや。孟子言ふ、「惻隠の心は仁の端なり」と。既に仁の端と曰へば、則ち便ち之を仁と謂ふべからず。退之言ふ、「博愛之を仁と謂ふ」と、非なり。仁者は固より博愛なり、然れども便ち博愛を以て仁と為すは則ち不可なり。仁と心と何ぞ異なると問ふ。曰く、心は譬へば穀種の如し。生の性は、便ち是れ仁なり。陽気の発する処は、乃ち情なり。義は宜と訓じ、礼は別と訓ず、仁は当に何と訓ずべき。説く者覚と訓じ人と訓ずと謂ふも、皆非なり。当に孔孟の仁を言ふ処を合はせて、大概之を研窮すべし、二三歳にして之を得るも未だ晩からざるなり。
-
『慎思録』巻之六人、奴僕を使ふの道に於いて、往往心を用ゐず、常に忽略す。夫れ仁者は愛せざること無し。況んや我が僮僕に於いてをや。今日用至近の事を察せざるは、何ぞ思はざるの甚だしきや。此れ之を其の賤悪する所に辟すと謂ふべし。陶淵明、一力を送りて其の子に給する書に曰く、此れも亦人の子なり、善く之を遇すべしと。此の言以て法と為すべし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る