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弁名 / 心志意

存心之說。昉於孟子。對放心言之。宋儒持敬所祖。然究孟子之意。亦其性善之說已。何則。其所謂心者。謂惻隱羞惡辭讓是非之心也。放心者。謂學者不察仁義禮智根於心遂失之也。故曰放曰求。皆論說之辭。而非若宋儒所言者焉。宋儒以爲工夫。可謂獃巳。仁齋先生辨之是矣。本心亦出於孟子。觀其以鄕與今對言。其意但謂其初時之意耳。宋儒以爲心之本然。仁齋先生爲良心。皆不知辭者已。

新字:存心之説。昉於孟子。対放心言之。宋儒持敬所祖。然究孟子之意。亦其性善之説已。何則。其所謂心者。謂惻隠羞悪辞譲是非之心也。放心者。謂学者不察仁義礼智根於心遂失之也。故曰放曰求。皆論説之辞。而非若宋儒所言者焉。宋儒以為工夫。可謂獃巳。仁斎先生弁之是矣。本心亦出於孟子。観其以郷与今対言。其意但謂其初時之意耳。宋儒以為心之本然。仁斎先生為良心。皆不知辞者已。

書き下し

存心の説は、孟子に昉まり、放心に対して之を言ふ。宋儒持敬の祖とする所なり。然れども孟子の意を究むるに、亦た其の性善の説のみ。何となれば、其の所謂心は、惻隠羞悪辞譲是非の心を謂ふなり。放心は、学者仁義礼智の心に根ざすを察せずして遂に之を失ふを謂ふなり。故に放と曰ひ求と曰ふは、皆論説の辞にして、宋儒の言ふ所の若き者に非ず。宋儒以て工夫と為す、獃と謂ふべきのみ。仁斎先生之を弁ずるは是なり。本心も亦た孟子に出づ。其の郷と今とを以て対言するを観れば、其の意但だ其の初時の意を謂ふのみ。宋儒以て心の本然と為し、仁斎先生良心と為すは、皆辞を知らざる者のみ。

現代語訳

「存心(心を保つ)」の説は孟子に始まり、「放心(心を放ってしまう)」と対にして言ったものである。宋儒の「持敬」の源流とされる。しかし孟子の意図を突き詰めると、これも性善説にすぎない。なぜなら、孟子のいう心とは、惻隠(あわれむ)・羞悪(恥じ憎む)・辞譲(譲る)・是非(正邪を見分ける)の心のことであり、放心とは、学ぶ者が仁義礼智が心に根ざしていることに気づかず、ついにそれを失ってしまうことを言うからである。だから「放つ」「求める」というのはみな論説の言葉であって、宋儒が言うような意味ではない。宋儒がそれを修養の工夫としたのは、愚かと言うほかない。仁斎先生がこれを論じたのは正しい。「本心」もまた孟子に出る。昔と今とを対比して言っているのを見れば、その意味はただ「最初の時の気持ち」を言っているだけである。宋儒が心の本来の姿とし、仁斎先生が良心としたのは、どちらも言葉を知らない者である。

解説

「存心」「放心」「本心」はいずれも孟子に出る語で、宋儒は持敬や本然の心を求める修養の根拠とした。徂徠は、孟子が議論のなかで使った言葉にすぎず、修行の段階を示す術語ではないと見る。本心も「もともとの気持ち」という程度の意味で、心の本体でも良心でもない。言葉が論説の文脈から切り離されて体系の柱にされると、大げさな教義が生まれる。経営書の印象的な一句が文脈を離れて社内の教条になるときも、同じ危うさがある。

この章句が説くこと

心存心本心孟子宋儒仁斎

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